【沖縄戦:1945年8月7日】「帰りたい 帰りたい 波照間へ」─西表島で戦争マラリアに苦しむ波照間住民の帰郷はじまる
波照間島への帰郷
波照間島の住民は45年4月、陸軍中野学校出身の諜報要員で島に離島残置諜者として送り込まれていた「山下虎雄」(本名:酒井喜代輔、酒井清)の軍刀による威嚇、恫喝により、西表島へ強制疎開した。なお波照間住民の疎開と山下虎雄については、次の note も参照して欲しい。
波照間住民は主に西表島南部の南風見(はえみ、はいみ)に避難小屋を建てて暮らしたが、2ヶ月もすると波照間島から持ち込んだ食糧が底を尽いた。また梅雨時期となると、マラリアを媒介する蚊が多くなり(波照間島はマラリアの無病地であったが、西表島はマラリア有病地であった)、ハエも異常発生するなど、衛生状態が悪化していった。
本来であればマラリアは恐れるほどのものではない。普通に食事をし栄養を摂取していれば、マラリアを媒介する蚊に刺されてもマラリアに罹患することはないが、戦時と強制疎開による食糧や薬の欠乏のため、多くの波照間島住民がマラリアに罹患し、命を落とした。
マラリアには当時からいくつかの特効薬があったが、当然住民はそのような薬を所持していなかった。しかし憎むべきことに、山下はマラリアの特効薬を所持し、気に入った住民には分け与えていたともいわれる。この薬の件をとっても、山下が島で住民に対しどのように振る舞っていたか、よくわかるだろう。
住民は山下に何度も帰郷の許しを求めたが、山下は絶対にこれを認めなかった。そして新たに避難小屋をつくるよう命じたが、その際「近いうちに避難小屋へいく。一張羅の晴れ着を用意しておけ」との趣旨の発言もしたそうだ。住民たちはこの言葉の意味を「殺しに行くから覚悟をしておけ」という山下による殺害予告と受け取り、マラリアで死ぬか山下に殺されるかの決断となった。
この山下の言葉についての住民たちの解釈は、現在の私たちからすれば少々行き過ぎた解釈とも思えるが、山下は住民の反対の声を押し切り、軍刀を抜刀して住民を威嚇し強制疎開させ、それによりマラリアで多くの住民を死なせたのであるから、住民からすれば山下は殺人鬼に他ならない。また住民は山下が火薬を持っているのを見たり、西表島の炭鉱で働いていた台湾人を殺害する現場を目撃していた。
その他にも、山下は疎開した住民をいくつかの班に分け、生活を監視していたが、班の共同炊事において食糧の分配が悪いとか、食糧の残量についての報告に間違いがあったなど些細なことで住民に暴力を振るっていた。また山下は挺身隊に組み込んでいた子どもたちにハエを捕まえるよう指示していたが、ある子どもの捕獲量が少ないとして、国民学校のIという教員を介して暴行をくわえ、死に至らしめるなどしている。住民たちはこうした山下のどう猛かつ狂気に満ちた性格を知り抜いていたのであり、山下の些細な言葉にも恐怖を感じるのは当然であった。
そうしたなかで波照間国民学校の校長であった識名信升校長は石垣島の宮崎旅団長にマラリアで苦しむ島民の窮状を訴え、帰郷を嘆願した。島出身ではない教員たちは郷里に帰っていたが、石垣出身の識名信升は島民とともに西表島に移り、ヌギリヌパン(鋸の歯)と呼ばれる海岸で青空教室をひらいて子どもたちを見捨てなかった。そして宮崎旅団長は識名校長に帰郷を許可し、ついにこの日、波照間住民の第一陣が帰郷した。
帰郷後のマラリア地獄とソテツ地獄
識名校長が山下に帰郷の旨を伝えると、山下はそれでもなお帰郷に反対したという。その上で「島に帰るなら玉砕することを覚悟しろ」と島民を恫喝したが、識名校長は「斬るなら私を斬れ」と山下に立ち向かい、帰郷を実行したという。まさしく識名校長が、そして波照間の住民たちが、山下すなわち日本軍を圧倒し、日本軍に勝利した瞬間といえるだろう。
しかし帰郷後の生活が順風満帆かといえば、そうではなかった。八重山旅団も甲号戦備を解除し、米軍も沖縄作戦の終了を宣言しており、山下の「玉砕」の言葉は恫喝以外の何ものでもなかったが、それでも帰郷後に住民はいわば波照間において「玉砕」とでもいうような多数の死者を出している。
それというのも波照間島はマラリア無病地であったが、マラリアに罹患した住民が帰郷したため波照間の蚊もマラリアを保菌してしまい、波照間島でもマラリアが猖獗をきわめることになったからである。また西表島への疎開にあたり、山下の命令で家畜をと殺していたのと、疎開していたため畑などの世話ができず、帰郷後の食糧事情も非常に厳しく、飢えに苦しめられた。
その他、と殺した家畜の骸を養分にしてハエが異常発生した。ハエは住民がいなくなったためか小指の先ほどの大きさであり、あちこちに群がり、その様子は一目見たら卒倒しそうなほど不気味であったともいわれる。
ともあれ人々は仕方なく島のソテツを切り倒し、デンプンを抽出して命をつないだという。この年の末まで一戸あたり約700本ものソテツを切り倒し、食糧にしたといわれる。まさしく波照間住民は「マラリア地獄」と「ソテツ地獄」に苦しめられたのである。波照間帰郷後に亡くなった住民たちは、島のサコダ浜に埋葬されたといわれる。
住民は48年、人々の命を救ったソテツに感謝をささげるため、このソテツから波照間島にソテツがひろまったと言い伝えられている大泊海岸に自生するソテツに供え物をするソテツ祭をおこなった。一方で住民の一部は、ソテツ祭はソテツ地獄を再び出現させる魔術のような気がしてならず、ソテツ祭に参加しなかったという。
なお識名校長は波照間への帰郷にあたり、この出来事を絶対に忘れてはいけないとして、南風見のヌギリヌパンの海岸の岩場に「忘勿石 ハテルマ シキナ」との文字を刻んだ。識名校長によるこの「わするないし」「わすれないし」と呼ばれる文字はいまでも残っており、戦争の悲惨さを伝えている。また戦争マラリアに犠牲になった「星になった子どもたち」との歌もつくられ、各地でうたわれている。
戦跡と証言 竹富町 忘勿石【放送日2009年4月23日】:NHK戦争証言アーカイブス
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『竹富町史』第7巻 波照間島
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)
・石原ゼミナール・戦争体験記録研究会『もう一つの沖縄戦 マラリア地獄の波照間島』(ひるぎ社)
・大矢英代『沖縄「戦争マラリア」 強制疎開死3600人の真相に迫る』(あけび書房)
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南風見の浜に刻まれた「忘勿石」:やえやまナビ2019