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【沖縄戦:1945年7月10日】「軍全般には防疫対策徹底したるも住民全般には及ばず、多大の犠牲を払うに至る」─八重山の強制退去と戦争マラリア

石垣島の戦争マラリア

 45年6月以降、八重山に配備されている独立混成第45旅団(八重山旅団、宮崎武之旅団長)は石垣の官民に避難を命令し、米軍の上陸が間近であるとして甲号戦備を下令した。これにより人々は軍が指定した退避先である於茂登岳の麓の白水などへ強制退去を余儀なくされるが、そこはマラリア有病地であり、人々は次々にマラリアに罹患した。
 7月のこのころにはマラリアは猖獗をきわめ、死者が続出するようになった。当時人口約2万人の石垣島で約1万人がマラリアに罹患し、うち2500人が死亡した。また一家全滅の家族は57戸、160名であったといわれる。

 さて山[白水]へ避難してしばらくたつと、あの小屋でもこの小屋でも、マラリア患者がつぎつぎに出ました。うちでも実母(八十二歳)と次女の弘子(十三歳)が一度にマラリアにかかって枕をならべ、高熱を出して苦しみもだえました。
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 そして弘子はとうとうアメーバ赤痢まで併発して死んでいきました。隣の小屋の瀬名波致信さんが山を下りて連絡して下さったので、夫が休暇をとってかけつけてきてくれました。しかし棺桶を作ろうにも板はなく、作ることができません。墓は村近くなので、そこまで運ぶことはできないし、白水には大勢の村人がいるので、そこに葬ることもできません。担架にのせて、私たち夫婦だけでも名蔵まで運び、道から少し離れた丘に穴を掘り、ただ埋めるだけでの弔いです。
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 小屋へ戻ってみると、母を熱を出して苦しんでいましたが、それから二日後、孫の弘子の後を追ってなくなり、私は泣くにも泣けませんでした。[略]

(喜舎場苗「悲しみと怒りでいっぱい─子と母と姑を亡くして─」:『市民の戦時戦後体験記録』第一集、石垣市市史編集室)

戦跡と証言 石垣市 白水の戦争遺跡群【放送日2009年2月18日】:NHK戦争証言アーカイブス

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八重山諸島における軍命によるマラリア有病地への強制避難:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

西表島の戦争マラリア

 45年4月8日、波照間島の住民は西表島の南風見(はいみ、はえみ)集落に疎開した。もともと波照間島はマラリア無病地であり、住民は軍によるマラリア有病地の西表島の南風見への疎開命令に反対したが、青年学校指導員として同島に送り込まれていた離島残置諜者「山下虎雄」こと酒井喜代輔の脅迫により、強制的に退去させられた。
 6月ごろになると波照間住民の間でマラリアが蔓延し、死者が出るようになった。7月に入ると暑さと食糧不足で栄養状態が悪化し、マラリアは猖獗をきわめ、死者が続出するようになった。波照間島住民は山下の脅迫をはねつけ、8月7日には波照間島に帰郷するが、そこでは山下が実行した家畜の強制供出による食糧不足と、西表島から持ち帰ったマラリアの蔓延というさらなる地獄が待ち受けていた。
 以上のような石垣島そして波照間島の戦争マラリアの実態と山下虎雄については、以前触れた通りである。

 これ以外にも波照間島の戦争マラリアと山下虎雄については、今後も触れることになる。
 それとともに西表島には波照間島以外にも鳩間島、竹富島、新城島、黒島の各島の住民が疎開させられたが、それらの島々の住民もマラリアに罹患し、亡くなっている。鳩間島では64人、竹富島では36人、新城島では47人、黒島では19人がマラリアで犠牲となった。
 小浜島住民や与那国島住民は西表島への疎開しなかったが、やはり島内でマラリアが発生し苦しめられた。また黒島では波照間島のように家畜の供出がおこなわれ、主に八重山の旅団司令部の食糧とされたともいわれる。

戦跡と証言 竹富町 鳩間島の戦跡【放送日2009年12月9日】:NHK戦争証言アーカイブス

「戦争マラリア」という呼称について

 軍は八重山におけるマラリア有病地・無病地の分布を調査しており、石垣島の於茂登岳や西表島の南風見など各退避先がマラリア有病地であることを把握していた。それでいてなおマラリア有病地に住民を退避させたのである。
 実際に医師の吉野高善は44年、軍により八重山地域のマラリア分布を依頼され、八重山のマラリアの歴史、罹患率、罹患者数、そして「マラリア有病地及無病地」という図を付した書類を作成、報告している。

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吉野善高作成「八重山群島ノ衛生状況大要」附図「マラリア有病地及無病地」石垣島南嶋民俗資料館所蔵 赤の地域がマラリア有病地、青の地域がマラリア無病地:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

 また八重山旅団元高級部員が戦後まとめた記録には、

マラリア病による損害の重大さを軍内で一番熟知して居られた旅団長は、甲戦備下令下の住民の対マラリア問題には頭をいためて居られた模様にて、避難は成るべく遅く、解除は早くとの趣旨であった様に思考せられた[略]

(東畑広吉「八重山兵団防衛戦闘覚書」:『市民の戦時戦後体験記録』第四集、石垣市市史編集室)

とあり、宮崎旅団長自身が住民の疎開とマラリアの危険性について強く認識していたことがわかる。
 それでは軍はなぜ危険を承知でマラリア有病地に住民を強制退去させたのだろうか。
 その理由はいくつか考えられるが、一つは波照間島や黒島における家畜の強制供出のように、住民を遠ざけることにより軍の食糧を確保しようとしたことが考えられる。
 もう一つは陣地構築作業への動員などにより、住民が軍の配備や機密を知っているなかで、上陸した米軍に住民が接触し、あるいは捕虜となるなかで、軍の機密を漏洩することを恐れ、軍の陣地内に収容しておきたかったということが考えられる。強制退去先の白水は、八重山旅団が司令部を構えた於茂登岳の麓にあるが、旅団はこの於茂登岳で徹底抗戦を展開する覚悟であり、軍の手もとに住民を置いておきたかったということが伺える。あくまでも軍の都合により住民たちは危険なマラリア有病地に退去させられマラリアに罹患したのである。
 罹患したマラリアが蔓延し、さらに重篤な症状に陥った原因も軍にある。先の八重山旅団元高級部員東畑氏の記録には、軍のマラリア対策について「軍全般には防疫対策徹底したるも住民全般には及ばず、多大の犠牲を払うに至る」とあり、軍はマラリアの対策を徹底しながら、住民への対策を怠っていた。実際、マラリアにはキニーネという特効薬があったが、その量は圧倒的に不足していた。旅団の軍医が台湾の部隊にキニーネを分けてもらうよう要請したところ難色を示されたという証言から、軍においてもキニーネは非常に貴重だったと思われるが、一方でキニーネを所持していた軍人がいたという証言もあり、東畑氏の記録も含め軍は一定数のキニーネの確保などマラリア対策をしていながら、それを軍優先とし住民へ供給することたため、住民にはキニーネが行き渡らなかったと思われる。
 またマラリアは、栄養状態がよく体力があれば死に至るほどの症状にはならない。しかし軍による食糧や畜産の強制的な供出により人々の栄養状態は悪く、それによりマラリアが蔓延し、重篤な症状に陥りやすかった。
 こうした沖縄戦中における軍命による強制退去とマラリアの罹患、そして人々の犠牲は、ただ単にマラリアの流行というものではなく、「戦争マラリア」というべきものである。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・大野英代『沖縄「戦争マラリア」 強制疎開死3600人の真相に迫る』(あけび書房)
・石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著/石原昌家監修『もうひとつの沖縄戦 マラリア地獄の波照間島』(ひるぎ社)
・『竹富町史』第2巻、第5巻、第6巻

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小浜島 マラリアの死者を運ぶ村人 【渡名喜盛建】:NHK戦争証言アーカイブス「沖縄戦の絵」