【沖縄戦:1945年4月4日】大本営は第32軍に昭和天皇の憂慮と飛行場奪回要請を伝達 攻勢延期と攻勢再興─動揺を続ける第32軍
賀谷支隊強し─4日の戦況
米軍は、喜友名ー普天間ー安谷屋ー萩道ー久場の線から南進を開始し、第32軍の主陣地の前方陣地に進出してきた。軍司令部はこの日朝8時20分ごろの戦況を次のように報じている。
中飛行場方面に上陸した米軍と交戦し、南進する米軍部隊を引きつけながら戦闘を繰り返していた賀谷支隊の第1線部隊はこの日、野嵩、新垣で米軍部隊と激戦となっていたが、ついに消耗激しく161.8高地(現在の中城村北上原にある丘、沖縄県消防学校の裏手)へ撤退する。支隊は翌5日の夜明けまでには同高地に撤退を完了し、5日には歩兵第63旅団の旅団命令により、首里司令部方面へ撤退し、その任務を終えた。
大隊長(支隊長)の賀谷與吉中佐は、志気旺盛に部隊を指揮し、部下の信頼も厚く、米軍相手に大きな損害を出しながらも互角の戦闘を繰り広げた。戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』は、賀谷支隊の戦闘について、「賀谷支隊強し」「孤軍奮闘」との小見出しまでつけているほどである。
主陣地左翼の独立歩兵第13大隊正面の前進陣地である神山・大山(現在の普天間飛行場周辺)には同大隊第5中隊が布陣していたが、この日朝から戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけ苦戦した。
賀谷支隊の撤退と米軍の南進の活発化により、第32軍牛島司令官は、これまで抑制していた軍砲兵隊による砲撃を指示し、首里北東2キロの地点に配備されていた野戦重砲兵第23連隊第1大隊が普天間、宜野湾方面に砲撃を開始した。ただし弾薬使用は規制されており、砲撃は十分ではなかった。
軍砲兵隊の主力は、米軍の上陸を警戒し沖縄島南部湊川方面に配備されていたが、牛島司令官は湊川方面から前線方面への配置転換を命じた。
米艦艇の主力は、引き続き嘉手納沖で艦砲射撃と揚陸作業を継続しているが、揚陸作業中の艦船は少しずつ減少していた。
第4遊撃隊の戦闘
このころより特設第1連隊の諸隊が沖縄中部の石川岳付近に集まっていた。米軍はこの日、石川岳地区に砲撃し、石川岳北側沿岸道にも米兵の進出が見られた。
この日午後、大鹿秀明中尉の指揮する第44飛行場大隊の約100名が石川岳に到着し、石川岳と峰を並べる恩納岳に拠点を構える第4遊撃隊(第2護郷隊、岩波壽隊長)の指揮に入った。岩波隊長は第44飛行場大隊を大鹿隊と大隊副官の田中和雄中尉の指揮する田中隊の2個中隊に編成し、石川岳に配備した。
この日夕方、米軍が東海岸では屋嘉、西海岸では谷茶まで進出したことを偵知した岩波隊長は、米軍に対する遊撃戦を企図したが、石川岳が中頭地区から後退する友軍の通路となっており、追尾する米軍の攻撃をうけるため、石川岳を拠点とする遊撃戦を一時中止し、部隊を恩納岳に移すことを決心し、各隊は4日夜に石川岳を発し、途中米軍と戦闘を展開しながら、5日昼から夜に恩納岳に集結した。
昭和天皇の憂慮の伝達と第32軍の攻撃計画
大本営陸軍部第1部はこの日、昨日の梅津参謀総長の戦況上奏の折の昭和天皇の沖縄戦に関する軍方針への憂慮の趣旨と、北・中飛行場の制圧の要望について、第32軍に参謀次長名で発電した。その要旨は次の通り。
昨日の幕僚会議を経て、第32軍牛島司令官は、「自分は、軍全力をもって、北、中飛行場地区に出撃するに決しました。よろしくお願い致します」と述べた(牛島はいつもこういう口調だったようだ)。八原高級参謀は再度攻勢移転への反対を主張したが、事態はかわらなかった。
こうして軍司令官による攻勢の決心と7日夜を期しての攻勢移転の命令に基づき、高級参謀は攻撃計画を策定した。しかし、これといって妙案があるわけでもなければ攻撃の準備があるわけでもなく、これまで防衛線で敵の前進を迎え撃つため待機していた部隊を飛行場方面にしゃにむに前進させ、米部隊に対し突撃する作戦でしかなかった。
軍司令官は、各兵団長を司令部に呼び、攻撃計画を指示した。各兵団長は攻撃計画を受け入れたが、高級参謀の前では無謀な攻撃計画に対する心配と不満の感情を吐露した。
第32軍はこの日夜、6日を期しての連合艦隊の航空総攻撃について、軍の7日夜を期しての攻勢開始にあわせて1日繰り下げて7日朝からの実施に変更して欲しいと要望した。
第10方面軍からの攻勢要望
第10方面軍はこの日夜、第32軍に連合艦隊、第6航空軍、第5航空艦隊の総攻撃に呼応し攻勢をとることを命令した。
第32軍牛島司令官は、「空海部隊ノ壮挙ニ比肩スル地上部隊ノ積極果敢ナル行動ニ依リ其ノ名誉ヲ発揮セン」云々の字句に不快感を覚えた。また昨日の第8飛行師団の攻勢要請の意見具申も相当に不快なものであり、第32軍を小馬鹿にしたような内容であったが、第32軍と上級軍や関係方面とは時にこうした感情的な対立もあり、そうしたことも軍司令官の攻勢移転の決心に影響したと考えられる。
攻勢延期と攻勢再興
攻勢移転を決定し、各兵団に攻撃計画を指示した牛島司令官であるが、この日夜、那覇南方150kmの地点に空母3、輸送船50の米船団を発見したとの情報が航空部隊からもたらされたため、軍司令官は翌5日、7日夜を期しての攻勢を撤回、延期することを各方面に打電した。
第10方面軍安藤司令官は、第32軍の攻勢移転決定の知らせをこの日夜に接し、攻勢移転を支援するための作戦を企図していたが、攻勢延期の報に接し、「攻勢の発動は容易ならざるべし、この際方面軍より踏ん切りをつけてやる必要あり」として、翌5日、第32軍にさらなる攻勢移転の督促を行った。以降、第32軍は攻勢延期と攻勢再興の決定を繰り返すことになる。
このあたりの事情について、宮崎第1部長のこの日と翌日の日記には次のように記されている。
民間人の保護、収容がすすむ
中城村の島袋でこの日、島袋収容所が開設される。主として中城村や宜野湾の住民が収容され、翌5日には6000人、13日には1万人を超える住民が収容されたそうである。同収容所ではキャンプ総長、警察署長、巡査、労務、食糧、衣料配給班といった組織を有し運営された。同収容所は後に米軍の作戦の要請上閉鎖となり、住民は7月11日に米軍のトラックで福山へ移動させられている。このように米軍占領地帯では住民の保護、収容がおこなわれ、各地に収容所が設置され、また閉鎖され、住民の移動が発生した。
具志川グスクで強制集団死おこる
この日、現在のうるま市の具志川グスクで強制集団死がおこる。米軍上陸後、グスク西側の壕では日本軍から手榴弾を渡された村の若い男女23人が籠っていた。彼らは侵攻してきた米軍に手榴弾を投げつけたが、機関銃などによる猛烈に反撃をうけ、観念して手榴弾を爆発させ13人が犠牲となったといわれている。
島尻地区に駐屯していた第24師団歩兵第89連隊第5中隊の陣中日誌によると、この日、同部隊で「機秘密書類非常処理ニ関スル指示」が出された。
戦況が緊迫するなかで、万一の際に機密秘密書類の処理の段階を定め、将校立ち会いのもと処理する云々とある。本来これにより処理されるはずであった同中隊の陣中日誌が現存し、まさしくこうした機密秘密書類の指示の事実をいまに伝えているのは、何らかの事情でこの陣中日誌が処理を免れたからに他ならず、奇跡的なものといえる。また、その反対に沖縄戦の実態を伝えることになるはずだった貴重な書類の多くが処理され現存していないこともうかがわせる。
小磯国昭首相の辞職と軍中央の動向
この日、小磯国昭首相が木戸内大臣に辞意を示し、木戸内大臣はただちに参内し、昭和天皇に小磯の辞意を伝えた。小磯首相は翌5日の臨時閣議で全閣僚の辞表を取りまとめ、ここに総辞職した。その日夜、鈴木貫太郎海軍大将に大命降下する。この鈴木内閣が最後の内閣であり、終戦内閣となる。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫
・吉浜忍「米軍上陸前後の日本軍─第二十四師団山第八十九連隊陣中日誌にみる日本軍の対応─」(『史料編集室紀要』第27号)
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戦車に守られて進軍する第96師団第382連隊の歩兵 1945年4月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-21-3】