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【沖縄戦:1945年6月8日】昭和天皇、海軍部隊に「御嘉賞」を賜う 「軍部及政府ニ対スル批判逐次盛トナリ」─国民の不満など人心離反に危機感を抱く中央政界

海軍部隊の戦闘と昭和天皇の御嘉賞

 小禄、豊見城方面では海軍沖縄方面根拠地隊と米軍の死闘が続いた。豊見城の海軍沖方根司令部は東西から攻撃をうけ逐次包囲された。また戦車を伴う米軍部隊が小禄集落を火炎放射、銃砲撃で攻撃した。
 これに対抗する海軍部隊の装備は貧弱で、レールを切り出した槍や急造爆雷を抱えた斬込みといわれる事実上の自殺攻撃で米軍の圧倒的な火力に戦いを挑んだ。
 第5航空艦隊宇垣司令長官の『戦藻録』のこの日の日記には次のようにある。

 六月八日 金曜日 〔晴〕
  [略]
 沖根は未だ健在にして戦況を報じつつあり。一四名の挺身伏勢隊は地雷を伏せM四戦車一粉砕一中破せしめ、また掩体内に熟睡中の敵七〇名を発見、手榴弾二五発を以てこれを粉砕したりという。
  [略]

(宇垣纒『戦藻録』下巻、PHP研究所)

 「地雷を伏せ」(海軍電報では小型機雷とされている)というが、その後に戦車を粉砕、中破させたというのだから、ただ埋設して帰還したわけではなく、何らかのかたちで起爆させたと考えられる。起爆させれば米兵が気づき逆襲されることもある。また掩体壕で休んでいる米兵を襲い粉砕したというが、当然反撃される可能性もある。いわゆる自爆攻撃とはいえずとも、反撃され戦死することも覚悟した事実上の自殺攻撃といっていいだろう。

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小禄・豊見城方面の8日の戦況 赤線が米軍の進出ライン 豊見城の司令部防衛線は確実に圧縮していった:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 なお第5航空艦隊は8日未明、海軍沖方根へ武器弾薬を補給するため陸攻機三機を出撃させ、小禄方面に約1000発の手榴弾を空中投下した。しかし投下位置が不明瞭などの理由で海軍沖方根はこれを入手することができなかった。手榴弾は結局米軍の手に渡ったともいわれるが、これについて海軍沖方根宛にこの日、次のような電報が発せられている。

  [略]
 機密第〇八一六四八番電
  [略]
手榴弾緊急投下ノ八〇一空陸攻三機発進(内一機ハ投下前ニ撃墜セラレタルモノノ如シ)二機ハ〇二一三及〇三三〇予定投下地点ヲ確認(一機ハ標示灯ヲ確認他ノ一機地形ヲ確認)ノ上投下〇七〇〇迄ニ帰着セリ一六四八携行手榴弾数計一〇八〇発ニシテ投下ニ成功セシハ七二〇発(二四箱)程度ト認ムルニ付予定投下地点附近捜索アリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 この電をうけ海軍沖方根は次のように返電している。

  [略]
 機密第〇九一〇一一番電
  [略]
二日ニ亘ル挺身物量輸送ニ対シ感謝ノ外ナシ各地火災発生地点識別ニ困却セルモノト搭乗員ニ対シ御礼申上グ当方万策ヲ尽シ信号及消火ニ努メタルモ発見困難ニシテ余力無ク之以上ノ物量投下ハ収容困難ナルニ付取止メラレ度貴隊ノ御協力ヲ感謝ス
  [略]

(同上)

 また昭和天皇はこの日、海軍軍令部豊田総長の戦況上奏にあたり、海軍沖方根の奮戦に対し「御嘉賞」(褒賞)を賜った。
 昭和天皇のこの日の御嘉賞については、上述の『戦藻録』のこの日の日記に記されているが、上奏の記録によると昨7日に豊田総長が昭和天皇に海軍沖方根が事実上の訣別電を発したことを上奏しており、海軍沖方根への御嘉賞は7日の上奏の際に賜ったものであり、これがこの日に宇垣司令長官に伝わり『戦藻録』に記されたとも考えられる。

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南部の与座付近の銃座 45年6月8日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-06-2】

8日の戦況

 独立混成第44旅団が守備する摩文仁司令部北東部は、昨日に引き続き米軍の猛攻をうける。新城南方の第2歩兵隊第3大隊は洞窟陣地に立てこもり陣地を固守した。また具志頭高地の独立混成第15連隊第1大隊も多大の損害を出しながら陣地を固守した。
 一方で混成旅団右地区隊(独立混成第15連隊)の前進陣地である富盛東南の田原を守備する独立混成第15連隊第2大隊は損害多大であり、連隊長は大隊を玻名城まで撤退させ、連隊の予備隊とした。このとき撤退した大隊の兵力は大隊長以下20数名に過ぎなかったといわれる。
 第24師団が守備する摩文仁司令部北西部では米軍が照屋北側、座波南側、世名城に進出し、前方警戒部隊と接触したが、全体としてはこちらの方面の米軍の攻勢は準備中と判断された。
 また湊川付近で米軍は揚陸作業を展開した。軍は砲撃をくわえてこれを阻止しようとしたが、すでに15糎加農砲が使用不能となっており、何もすることができなかった。

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8日の戦況における主要な地名(緑枠)と主要な部隊(赤枠):戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 軍はこの日の戦況を次の通り報告している。

 球参電第六九九号
 八日地上戦況(九日発電)
 我カ右翼方面ニ於テハ敵ハ朝来広範囲ニ熾烈ナル艦砲ト迫撃砲ノ集中射ヲ加ヘツツ具志頭ノ我カ前進陣地ヲ攻撃正午頃遂ニ奪取セラル 敵ハ湊川ヨリ一部ノ揚陸ヲ開始セリ
 左翼方面ニ於テハ敵ハ國場─東風平道ニ沿ヒ兵力ヲ南進増加中ニシテ世名城─西原屋取─七一高地─賀数ノ線ニ約一、〇〇〇ノ敵進出 各攻撃準備ヲ整ヘアルモ昨夜ハ砲兵射撃ニ依ル反撃ト果敢ナル挺身斬込トニ依リ多大ノ出血ヲ与ヘ攻撃準備ヲ妨害シアリ 尚東風平、志多伯ニ約一、〇〇〇武富、波平、保栄茂、翁長ニ約六〇〇ノ敵集結シ南下ヲ企図シアルカ如ク 小禄現況ハ通信意ノ如クナラサル為細部ノ状況不明ナルモ金城、赤嶺、當間、及根差部、高安ノ附近ニ於テ激戦中ナルモノノ如シ

(上掲戦史叢書)
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首里城近くの円鑑池・龍潭 45年6月8日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-06-2】

中央政界の動向

 このころの中央政界の動向は、6日に最高戦争指導会議、8日に御前会議、9日に臨時議会が開催されるなど、戦争継を継続するのか、終戦、講和へ舵をきるのか、緊張した政局にあった。
 既に触れた通り、6日の最高戦争指導会議では「世界情勢判断」「帝国国力ノ現状」「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」について討議がおこなわれた。陸軍河辺参謀次長は「和平」の言葉が出れば退席する覚悟で出席したが、そうした言葉は出なかった。ただし豊田軍令部総長から出たという「国民ハ戦争ニ無関心ナリ」との発言には注目したい。すでに政府、軍部も国民の無関心や厭戦気運の高まりを無視できないところまできていたといえる。
 8日の御前会議においては、陸海軍とも沖縄戦について言及があり、陸軍としては沖縄戦の戦況がかなり悪化していることを述べるが、海軍は敵に多大の出血を与え、確実に米軍の侵攻を遅延させているとの趣旨のことを述べている。「捨て石」としての沖縄戦認識がここでも明白となっている。
 一方で御前会議において「民心ノ動向」として

軍部及政府ニ対スル批判逐次盛トナリ動モスレバ指導層ニ対スル信頼感ニ動揺ヲ来シツツアル傾向アリ且国民道義ハ頽廃ノ兆アリ

(戦史叢書『大本営海軍部・連合艦隊』<7>)

と報告、討議があったことは注目してよいだろう。これはおそらく6日の最高戦争指導会議における「国民の無関心」と関係のある言葉と思われるが、御前会議という席上において軍部および政府への国民の批判が盛んとなり、指導層への信頼感の動揺について言及があり、軍部・政府が危機感を抱いたことは重要な意味を持つと思われる。
 また8日に召集され9日に開会した臨時議会においては、主に戦時緊急措置法と義勇兵役法について審理がなされ成立し、6月下旬に公布された。
 戦時緊急措置法とは、5月下旬の大本営「機密戦争日誌」に頻出する「全権委任法」のことと思われるが、帝国議会の権限を停止し内閣に独裁権限を与えるとともに、軍需生産の増強や物資統制などを強化する権限を与えるものである。
 また義勇兵役法は15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子を必要に応じ義勇兵として召集し、戦闘に参加させることを可能とする法律である。本土決戦を見据え、ありとあらゆるものを「根こそぎ動員」する体制が構築されつつあったといえるが、これらはすべて沖縄で先行的に実施されていたものであったことは忘れてはならない。

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戦時公債運動補助のためアメリカに向かう第10軍の軍人たち 米軍のプロパガンダは戦時公債の発行のためにも必要であった 45年6月8日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-22-1】

新聞報道より

 このころより沖縄から発進した米軍機による九州での爆撃、機銃掃射など空襲が激化していったことは以前紹介した通りであり、それらが当時の新聞報道でも盛んに報じられたことも以前触れた。この日もまた大阪朝日新聞で「沖縄からの本土爆撃」の様子(この日は直接は攻撃はしなかったが)が報道されている。

沖縄からの本格来襲を厳戒
 四十機南九州来襲
  P38も初の見参
沖縄基地から発進したと思はれるP38、P47、P51およびグラマンF6Fの敵約四十機はB24とともに三機乃至八機の十二個編隊に分れ、七日午前八時五十分ごろより九時三十分ごろまでの間に薩摩、大隅両半島及び志布志湾附近から逐次侵入、主力は薩摩、大隅両半島、一部は宮崎県下を行動、九時三十分過ぎから十時五十分ごろまでに海上に脱去した、敵機は鹿児島附近で伝単を撒布したのみでわが飛行基地もしくは市街地に対しては何ら攻撃を加へた形跡なく従ってわが方の損害はなかった、この敵の行動および大中小型各種機をとりまぜていたこと、機種の多い割に機数が少かったことなどから同日の来襲はおそらく敵の沖縄基地からする慣熟飛行と見られ、六日午後鹿児島県下に来襲した機種不明の敵小型機約三十機も殆ど攻撃らしい攻撃を加へず脱去してをり、かかる連日の敵の行動は沖縄地上作戦がいよいよわが方にとって困難を加へつつあり、さらに伊江島の敵飛行場の整備強化、義烈空挺部隊の強行着陸によって拘束していた北、中飛行場の再整備などの情報と睨み合せ、敵の沖縄基地からする本格的九州来襲はいよいよ近き将来に迫ったものとしてB29による絨毯爆撃とともに沖縄基地に対する警戒と対策を急ぐ必要があらう、なほ双発双胴のP38が来襲したのは九州は勿論内地本土にもはじめてのことである
去る三十一日那覇、首里両市に侵入した敵はその後首里南部附近において活発な浸透南下を企て、三日以後彼我の戦線は概ね那覇南部より国場川南岸を連ね東海岸においては稲福を結ぶ線で相対峙しつつある、わが部隊は各所に浸透を企てる敵部隊を邀へ勇戦奮闘中であるが圧倒的な物力をもって強引にのしかかって来る敵の浸透を完全に阻止するまでにいたらず我主陣地帯への侵入を許すの止むなきに立ち至っている、沖縄本島は今や雨季に入り、物凄い泥濘の中に彼我の血戦激闘は日と共に凄絶を加へ、敵屍は累々として山野を埋め硫黄島以上の『地獄の島』の相貌を呈している、しかしわが方の損害もまた少からず戦局は漸次困難を増しつつある

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)
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家財道具を運ぶ住民 45年6月8日撮影:沖縄県公文書館【写真番号06-16-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・戦史叢書『大本営海軍部・連合艦隊』<7>
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)

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豊見城の海軍司令部壕 堅牢な地下壕だが、ツルハシなどを用いて全て手掘りで建設したことに驚かされる:筆者撮影