【沖縄戦:1944年7月1日】大陸戦線と沖縄戦─南京で捕虜を「ヤッチマエ」と主張した長勇参謀長や「三光作戦」を実行した部隊からなる第32軍
長勇少将の沖縄派遣と参謀長就任
沖縄戦地上戦の一年前のこの日、大本営参謀本部付長勇少将が沖縄に派遣された。長は関東軍総司令部付であり、サイパン奪回作戦の要員として東京に招致されていたが、奪回作戦中止により44年6月27日参謀本部付となっていた。
大本営陸軍部は第32軍の作戦援助のため長を沖縄に派遣し、長は腹心であった大本営参謀木村正治中佐を伴って、この日第32軍司令部に到着した。また同日、第32軍参謀に任命された林忠彦少佐が沖縄に到着した。
以降、長は大東島や宮古島など島嶼部も含めて沖縄各地を視察して兵備を研究し、中央に報告するが、7月8日、第32軍北川潔水参謀長にかわり第32軍参謀長に就任した。また木村も同日、第32軍参謀に任命され、後方業務を担った。
なお長は7月11日、上京して南西諸島防衛には最小限六個師団と一個連隊を必要とすることなどを述べ、おおむね長が所望した兵力が配備されることとなった。
長勇と南京攻略戦
戦後、八原高級参謀が回想しているように、長は当時の軍部において知らない人がいないほどの有名人であり、豪快かつ直情型、また部下の面倒見のいい親分肌の人物であったそうだ。
また長は、いわゆる昭和維新運動などにも参加していた。橋本欣五郎が主宰する桜会という軍人の右翼結社に参画しており、橋本が主催する会合に司会者役で登壇している姿を八原が目撃している。この際、演壇に立つ橋本の背後には、クーデターによると思われる軍部独裁の閣僚名簿が大書してあり、長は警視総監候補となっていたそうだ。
ところで長は37年の南京攻略戦に上海派遣軍司令部情報主任参謀として参加しているが、その際に指揮下の師団から捕虜をどうするかという問い合わせをうけ、「ヤッチマエ」と繰り返し主張していたといわれる。
なお第32軍牛島満司令官も37年の南京攻略戦に歩兵第36旅団の旅団長として参加していたが、同旅団が属した第6師団の谷寿夫師団長は戦後、南京虐殺の戦犯として死刑となっている。牛島個人が当時、南京虐殺にどのように関わったかは不明だが、いずれにせよ南京攻略戦とはそうした関わりがある。
第32軍の首脳たちには、こうした血塗られた戦場の記憶、体験がある。戦時における彼らの戦闘の指揮にそうした記憶や体験が反映され、兵士や住民の命の軽視につながった部分は少なからずあるだろう。
大陸での殺戮戦を経験した第32軍部隊
第32軍各部隊も大陸から沖縄に移動した部隊が多く、例えば第32軍の主力師団である第62師団は、いわゆる「三光作戦」と称される大陸での治安粛清作戦をおこなっていた部隊をもとに山西省で編成されている。
南京攻略戦はじめ大陸での壮絶な殺戮戦に関わった軍人、兵士たちにより沖縄戦は戦われたのであり、そうしたことも沖縄戦で住民の命が軽視された一因となったと考えることもできる。
実際、第32軍の兵士たちは、沖縄においてまるで占領軍のような振舞いをしていたといわれる。軍による住民「スパイ」視や略奪、性暴力などの数々の軍紀違反はこれまで繰り返し取り上げてきた通りだが、そうした兵士たちの軍紀違反や軍紀の弛緩、あるいは法に触れないまでも横暴な態度は軍内部でも問題視されていたようであり、第62師団独立歩兵第15大隊は44年12月、大隊長交代があり、その際離任する大隊長が
と訓示している。
大陸で殺戮戦をおこなった部隊が、そのままの感覚で沖縄に派遣され、占領軍意識で住民に接したらどうなるか。略奪や性暴力あるいは住民に対する数々の迫害も、いわば必然的に起きたものともいえる。
また住民が、米軍に投降したら男は戦車で殺され、女性は性暴力をうけ「慰安婦」にさせられるなどと信じ、米軍に捕らわれるくらいなら「自決」しようと考えたのも、まさしく日本軍が大陸でそうしたことをやってきたからこそ米軍もきっとそうするに違いないと考えた第32軍の兵士たちが住民にそう吹き込んだからともいえる。
第32軍の軍人、兵士たちは、沖縄に派遣される以前に何をやってきたのかということも沖縄戦を考える上で検討されるべきことであろう。
大陸戦線での略奪の経験を語る大塚敏男さん なお大塚さんは沖縄戦には直接の関係はない:NHK戦争証言アーカイブス
参考文献
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・林博史「『集団自決』問題を考える視点」(『季刊戦争責任研究』第60号、2008年夏季号)
トップ画像
南京に入城する日本軍 :『支那事変写真全集』中、朝日新聞社、昭和13年