【沖縄戦:1945年2月19日】大宜味村で北部疎開者用の避難小屋が建設される 沖縄戦と暗号 米軍、硫黄島に上陸開始
住民の北部疎開すすむ
沖縄北部で疎開者の受入れが進むなか、村ごとに割り当てられた疎開受入人数を村内の集落ごとにさらに割り当てた大宜味村でこの日、全村あげて疎開者用の避難小屋づくりがはじまった。
北谷村では、かねてより住民の北部疎開を促すため、まずは役場職員や区長の家族を疎開させる措置をとった。このため19日、指定疎開地である羽地村仲尾次の民家に「北谷村役場羽地分所」を設置し、疎開住民の受入作業にあたらせた。
北部疎開と食糧問題
こうして大勢の疎開者が北部に流入したことにより、疎開者や北部住民は食糧問題に悩まされることになり、栄養失調や飢餓で住民が亡くなる事例も発生した。県は、ソテツからデンプンをとって栄養を確保するよう奨励したが、ソテツには猛毒が含まれており、毒抜きが不十分で死に至るケースもあった。
他方、県が台湾から手に入れた大量の米が名護湾にも入ってきたともいわれている。あるいは配給やイモ、牛などを食糧として何とか生きていくことはできたという証言もあるが、地上戦がはじまると北部に逃亡した日本兵による住民の食糧強奪が頻発し、今まで何とか食べていくことができた住民も食糧問題に苦しめられたという。
沖縄戦と暗号─独立混成第15連隊本部陣中日誌より
沖縄に駐屯していた独立混成第44旅団(鈴木繁二旅団長)の隷下部隊である独立混成第15連隊(美田千賀蔵連隊長)のこの日の連隊本部陣中日誌には、「各大隊宛み号乱数表六部配布」「同三所一系用乱数表一部配布」とある。
「み号乱数表」「三所一系用乱数表」というのがどのようなものかは不明ながら、沖縄戦では部隊間同士の連絡は暗号でなされており、情報を乱数表や計算表といわれる特殊な数列と特殊な算術で暗号化し、連絡を取り合っていたため、乱数表など暗号関係文書の取り扱いは厳重であったといわれている。おそらく「み号乱数表」「三所一系用乱数表」は、そうした乱数表の一種かと思われる。
一方、米軍も日本軍の暗号解読に力を入れており、沖縄戦においても暗号解読のための特別チームが派遣されている。また日本軍捕虜に対しては暗号に関する尋問が行われ、暗号関係文書の押収や解読も行われており、ほとんどの暗号は解読されていたといわれている。
例えば、米国側の資料には、「どの部隊も、他の部隊を支援している。しかしほとんどの部隊は、大損害を被っている。7中隊は、人員の半分を失った。およそ7人が残っている」(第62師団第11大隊より第14大隊へ)といった部隊同士の連絡が記録されており、日本軍の動きは筒抜けであった。
それとともに、こうした解読暗号からは、追いつめられた戦場での日本兵の悲壮な声が聞こえてくる。
1945年2月19日の陣中日誌から「情報戦」としての沖縄戦と、人間同士の「殺し合い」という戦場のリアリティの一端を伺うことができる。
当時の報道から
この日の沖縄新報には、次のような記事が掲載されている。
米軍、硫黄島に上陸開始
硫黄島に集結する米艦船は、この日朝6時には500隻にも達した。そして6時45分ごろより、米艦船は硫黄島に1キロから2キロの距離に近づき、摺鉢山や元山飛行場などへ猛烈な艦砲射撃をおこなった。8時ごろからは、戦爆連合(戦闘機と爆撃機の編隊)による銃爆撃がおこなわれ、9時ごろより米軍上陸部隊が島の南海岸に上陸を開始した。第1波の上陸兵力は、歩兵約8個大隊と戦車約1個大隊であった。米軍は10時30分ごろには上陸を完了したといわれる。
硫黄島守備隊は、上陸した米軍の動きが鈍くなる砂浜での移動時を狙って火力を集中し、米軍に多大な損害を与えた。それでも米軍の優勢はかわらず、一部の米軍は千鳥ヶ浜まで達した。摺鉢山には米軍の火炎戦車が進出し、摺鉢山の第1線部隊は全滅した。
下の図の黒線がこの日の米軍の進出線であるが、千鳥飛行場付近まで進出し、上陸部隊も最終的には2個師団にのぼった。優勢を誇る米軍は数日で硫黄島を攻略できると考えていたが、これより1ヶ月以上にわたる熾烈な戦闘がおこなわれることになる。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・宮城能彦「国頭村奥むらの戦争体験」1(『沖縄大学人文学部紀要』第14号、2012年)
・保坂廣志「沖縄戦と暗号作戦」(『人間科学』第2号、1998年)
・「独立混成第15連隊本部陣中日誌」昭和20年2月19日(アジア歴史資料センター【Ref.C11110153500】
・戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』〈2〉
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硫黄島に上陸し待機する米海兵隊員 沿岸での日本軍の抵抗は散発的であり、米軍は当初、事前攻撃で日本軍の陣地が破壊されたと考えたが、部隊が完全に上陸してから日本軍の反撃がはじまった:時事ドットコムニュース 硫黄島の戦い 写真特集