【沖縄戦:1944年7月6日】「悠久ノ大義ニ生キルヲ悦ビトスベシ」─サイパン「玉砕」と、第9師団司令部および独立混成第15連隊の沖縄派遣
沖縄への部隊配備
陸軍新田原飛行場に移動した第9師団(原守師団長)の師団司令部(約100名)は、同じく新田原飛行場に移動してきた独立混成第15連隊(美田千嘉蔵連隊長)とともにこの日、空路で沖縄に派遣された。なお2000人規模の独立混成第15連隊は、この日から12日にかけて何度かにわけて空輸された。輸送機は陸軍の輸送機や重爆撃機のほか、日本航空の輸送機なども使用されたという。
また第9師団の各部隊は船で沖縄に送られることになり、9日に鹿児島を出港し、11日に那覇港に入港した。独立混成第15連隊の残余の部隊も22日までには船で那覇に到着した。
なぜ第9師団司令部や独立混成第15連隊の大部が空輸で派遣されたかというと、この直前に独立混成第44旅団および同第45旅団の各兵団やその他の部隊を乗せて沖縄へ向かっていた輸送船「富山丸」が米潜水艦により撃沈される事件が発生したため、海路を避けたのではないかと思われる。混成旅団の沖縄派遣と輸送船の沈没については、あらためて確認したい。
サイパン奪回作戦と沖縄
もともと第9師団は44年6月15日からの米軍のサイパン上陸をうけて、同島防衛に投入されるため釜山に集結していた。それ以前は満州で治安維持や警備などを担っており、過去には南京攻略戦などにも加わっている兵団である。
軍中央はサイパン防衛に自信を見せていたが、マリアナ沖海戦に敗北したことにより、サイパンへの兵力投入の見込みが立たなくなり、24日にはサイパン奪回作戦が中止となった。見捨てられたかたちとなった日本軍のサイパン守備隊は7月5日に訣別電を発し、この日南雲司令長官は「戦陣訓ニ曰ク『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ』勇躍全力ヲ尽シテ従容トシテ悠久ノ大義ニ生キルヲ悦ビトスベシ」と訓示し、斉藤師団長、井桁参謀長、矢野参謀長などサイパン方面の陸海軍首脳とともに自決、残存部隊は7日に万歳突撃を敢行して全滅した。
それまで沖縄は、サイパンはじめマリアナ諸島など絶対国防圏を維持するための前進基地であり、マリアナ諸島が第一線陣地であれば沖縄は第二線陣地であった。そのため、このころの沖縄の第32軍は「軍」といっても工兵部隊を中心とした小規模な兵力しかなく、任務もあくまで飛行場建設が主であったが、こうしてサイパンの戦況が悪化したことにより、台湾、フィリピン、そして沖縄が急速に最前線と化していった。
そこで大本営は、いわば裸同然の沖縄に急遽大兵力を投入することになり、サイパンに投入予定であった第9師団はじめ各部隊が沖縄へ派遣されることになる。これにより沖縄では飛行場建設とともに陣地や兵舎など軍事施設の構築も急ピッチですすみ、住民も大量に動員されていく。
また沖縄への大兵力の投入は、住民と軍が異常な「近さ」で共存することになり、軍は沖縄蔑視に裏づけられた住民「スパイ」視による防諜を極度に意識し、様々な住民の犠牲や負担が発生していく。それとともに兵士による住民の民家への不法な侵入などのトラブル、さらには兵士による性暴力事件なども多発していく。
なおサイパンの戦いでは、サイパンへ移民した多くの沖縄出身者が戦闘に巻き込まれ犠牲となっている。サイパンの戦いでは、いわゆる「集団自決」も発生しており、戦況悪化により沖縄県民の本格的な疎開の検討もはじまる。またサイパンの戦いの戦訓は、軍の沖縄作戦にもたらされている。こうしてみると、サイパンの戦いは「もう一つの沖縄戦」であった。
[NHKスペシャル]ドキュメント太平洋戦争 第3集 エレクトロニクスが戦(いくさ)を制す ~マリアナ・サイパン~:NHK戦争証言アーカイブス
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』<1>
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第1号(琉球新報2004年7月7日)
・吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史6(岩波新書)
トップ画像
サイパン島に上陸する米海兵隊 よく見ると左側と中央の兵士が日本軍に撃たれ崩れ落ちている 44年撮影:沖縄県公文書館【写真番号26G-2649】