【沖縄戦:1945年6月12日】「生命を助けるビラ」─米軍の投降の呼びかけによる日本兵、住民の大量投降はじまる
12日の戦況
この日未明、南部一帯に深い霧が立ち込めた。その隙をつくかのように米軍の一部が八重瀬岳東122高地北方に侵入し、八重瀬岳に陣地する独立混成第44旅団左支隊(平賀隊)と109高地の混成旅団司令部の連絡は断絶した。
八重瀬岳周辺の防御部署について、八原高級参謀は配備の重点が八重瀬岳東麓の断崖の下にあり、頂上付近が薄弱なのを見て、間隙の閉鎖を指摘していたところであった。部隊は頂上付近における飲料水の確保が難しいため、低部に陣地占領していた。
摩文仁司令部右翼の91高地、玻名城、安里でも激戦がつづき、守備隊の陣地は逐次突破されていった。
第32軍司令部に対し第24師団および軍砲兵隊から、八重瀬岳の米軍を撃退し同地付近を確保すべきとの要請がしきりに届いたが、混成旅団司令部からは「八重瀬岳方面に将校斥候を派遣して偵察させたが、敵影を見ない。122高地東側から米軍が突破しようとする気配はあるが、混成旅団としては部隊を配備してあるし、独立臼砲第1連隊も配備しているので安心願いたい」旨を報告するなど、軍司令部は判断に悩んだ。
牛島司令官は既に軍砲兵隊や高射砲隊、電信第36連隊から抽出した約六個中隊などを混成旅団に増加していたが、司令部周辺の第62師団を同旅団に増強するべき時と判断し、かねて指示していた同師団の二個大隊を同旅団の指揮下とし、同師団主力を随時司令部右翼に移動するよう命令を下達した。
混成旅団長は、第62師団から配属された独立歩兵第13大隊を旅団右翼正面に、同第15大隊を左翼八重瀬岳方面に増加するよう部署した。独立歩兵第13大隊は14日夜、山城から仲座南側に移動して混成旅団長の掌握下に入ったが、同第15大隊は進出が遅れ、14日夜に真栄平東南側に進出した。
この日、摩文仁司令部左翼を守備する第24師団の正面も米軍の本格的攻撃が開始された。この日、一部の米軍部隊が国吉台地北西の一角に取りつき、また糸満南部に米軍の水陸両用戦車が上陸した。
軍司令部は司令部右翼の独立混成第44旅団のみが激闘をつづけ、司令部左翼の第24師団方面への米軍の攻撃がゆるやかであることから、第24師団が健在のまま右翼を突破した米軍によって司令部が壊滅することを憂慮していたが、これにより全線での日米の激闘となった。
第32軍はこの日の戦況を次のように報告している。
「生命を助けるビラ」の配布
米軍はこの日より「生命を助けるビラ」といわれる降伏勧告のビラを大量に前線にばら撒いた。
沖縄戦において米軍が心理戦を展開したことは何度か触れた。特に「琉球週報」という新聞形式の伝単(宣伝ビラ)は日本側によく読まれ、これが他のビラやすでに捕虜となった者による投降の呼びかけなど、全ての心理戦の基盤になったことも触れた通りである。
こうした心理戦は一定の成果をおさめ、兵士や住民は着実に投降を開始していたが、米軍がこの日から前線に配布した「生命を助けるビラ」の効果は大きく、これ以降投降者が飛躍的に増加していく。
日本兵の投降者数の推移については、5月31日までは全体で138人、1日平均3.8人であったが、6月に入ってからは11日までは274人、1日平均12.4人、「生命を助けるビラ」が撒かれた12日から16日までの5日間だけで274人、1日平均54.8人となっている。こうした投降者数は以降も増加していき、牛島司令官が自決し第32軍の組織的戦闘が集結した23日からの1週間では太平洋戦争で前例のない数の兵士が投降したという。民間人に関しては、同じ時期に4万5千人が収容されたといわれている。
米軍は伝単をはじめ心理戦がどの程度の影響を与えたか正確な評価は不可能としているが、「生命を助けるビラ」はじめ米軍の伝単など心理戦は確実に成果があったと考えていいだろう。
日本軍は米軍の伝単を所持したり読むことを禁じ、部隊によっては伝単を所持するものは処刑するとまで布令している。投降するためガマや壕から出て行こうとする民間人を日本兵が銃殺することもあった。
一方で、実際には捕虜将兵のうち約9割がビラを目にしたというデータもある。また将校がビラの内容について下士官などと話し合っていたケースもあり、将校が兵士を引き連れて投降する事例も少なくなかった。
言うまでもなく日本兵にとって、投降して米軍の捕虜となることは、何より恐怖であった。それは米軍の捕虜ともなれば、男は戦車で轢かれるなど残忍な方法で殺され、女は性暴力をうけるなどと教え込まれていたからである。また日本兵にとって捕虜となることは「恥」であるという意識がとても強く、こうした意識が投降の妨げとなった。
実際に沖縄戦の地上戦最初期から中期までで捕虜になった兵士たちは、「眠っているところを捕えられた」「負傷して動けなくなりやむなく投降した」などと述べ、「仕方なかった」ということを強調することが多かった。中には捕虜となって米軍の尋問をうけても、しばらくは黙秘して何も話さなかったり、軍事情報についてウソをつく兵士もいた。また自分の存在を「家族に知らせないで欲しい」と哀願したり、「どこか誰もいないところで暮らしたい」などと話す兵士も多かった。
こうした頑なな兵士たちの心理を解きほぐすために「生命を守るビラ」をはじめ様々な心理戦が展開されていったわけであり、それは着実に成果をおさめていったが、何より日本兵や住民の「心理」に訴えかける大前提は、必ず勝つと信じていた日本軍が実際は何の実力もなく、武器弾薬もなければ食糧もなく、ただただ米軍に翻弄されていった「現実」にあることはいうまでもない。こうした現実が兵士、住民の精神を動揺させ、そこに心理戦が入り込んでいくなかで、沖縄戦末期においては自発的に投降する兵士・住民も増え、捕虜となったことを恥とは思わず、日本の再建のために尽力したいと尋問ではっきり答える兵士も増えていった。
新聞報道より
大阪朝日新聞はこの日、沖縄の戦況を次のように報じている。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言ー針穴から戦場を穿つー』上(紫峰出版)
・保坂廣志『沖縄戦将兵のこころ 生身の捕虜調査』(紫峰出版)
・保坂廣志・林博史・比嘉要「沖縄戦における日米の情報戦─暗号・心理作戦の研究-」(琉球大学学術リポジトリ)
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「生命を助けるビラ」(裏):Twitterアカウント 伝単bot @Dentan_Bot より