【沖縄戦:1944年8月10日】牛島満中将、第32軍司令官として沖縄に着任
渡邉司令官の更迭
1944年3月22日に大本営直属の軍として設置された第32軍は、渡邉正夫中将が司令官をつとめた。なお設置当初の参謀長は北川潔水少将(44年7月より長勇少将)、高級参謀は八原博通大佐であった。
渡邉司令官率いる第32軍の課題は、サイパン防衛のための前進基地として飛行場建設にあったが、建設作業ははかばかしくすすんでいなかった。そしてサイパン陥落によりフィリピン、台湾、沖縄方面への米軍の侵攻が予想されるなかで、軍の作戦方針は引き続きフィリピン方面での決戦をにらみ飛行場を急速に建設するとともに、沖縄そのものの防備を固めることにかわっていった。
こうした状況のなかで、渡邉司令官は職務に励んだが、過労のため7月中旬より病床に臥してしまった。そのため8月8日、陸軍士官学校長を務めていた牛島満中将が第32軍司令官に親補され、牛島司令官はこの日、那覇に着任した。渡邉司令官は11日、那覇を発った。
第32軍の司令官交代は、沖縄が航空中継、補給基地から「本土防衛の防波堤」「決戦場」と位置づける軍の作戦方針の変更による事実上の更迭ともいわれている。
牛島司令官の着任
第32軍司令官として着任した牛島司令官は、31日に開催された第32軍兵団長会議にて、「国歩漸ク難キノ秋死生ヲ偕ニスヘキ兵団長ト一堂ニ会シ其ノ雄風ニ接シテ所懐ヲ開陳スルノ機ヲ得タルハ本職ノ寔ニ本懐トスル所ナリ」との緒言からはじまり、
などと各部隊に訓示する。
これをうけ各兵団各部隊は沖縄現地の住民や物資を総動員していくとともに、例えば浦添に駐屯した第62師団部隊は「管下ハ所謂『デマ』多キ土地柄ニシテ…防諜上極メテ警戒ヲ要スル地域ナルニ」と訓示するなど、住民「スパイ」視を高めていくことになる。
そもそも牛島司令官は37年の南京攻略戦においては、歩兵第36旅団長(少将)として参加していたが、同旅団が属していた第6師団の師団長である谷寿夫中将は、戦後、南京大虐殺の責任を問われ戦犯とされ死刑になっている。牛島個人が南京大虐殺にどのように関与し、どのような責任があるかは不明ながら、牛島が指揮した旅団も一連の残虐行為に関与していることは間違いがない。
このような将兵や部隊の経験が、強制集団死(いわゆる「集団自決」)や日本軍による残虐行為など沖縄戦の個々の事象の背景や底流にあったといえるだろう。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・林博士史「『集団自決』問題を考える視点」(『季刊戦争責任研究』第60号、2008年夏季号)
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第32軍司令官牛島満大将 牛島司令官は沖縄戦で戦死し、中将から大将に昇任した:「NEWS23」2020年6月23日