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【沖縄戦:1944年7月27日】伊江島地区警備隊、ハンセン病患者の隔離収容をおこなう

沖縄戦とハンセン病

 この日、伊江島でハンセン病患者約10名が軍により隔離、収容される。この時期に伊江島に配備されていた独立混成第15連隊第3大隊の陣中日誌の「附録第三警報西第三号」には、この日の日付で以下のようにある。

陣中日誌 第二号
 独立混成第十五連隊第三大隊
附録第三 警報西第三号

 昭和十九年七月二十七日 伊江島地区警備隊
警備状況報告
  [略]
五、衛生
軍医ノ積極的ナル努力ト幹部ノ周到ナル注意ニヨリ衛生情況ハ極メテ良好ニシテ未ダ憂慮スヘキ患者発生セス全員溌剌タル元気ヲ以テ任務ニ邁進シツヽアリ衛生上特ニ留意シ且実施シツヽアル事項
1、珊瑚礁ヲ利用シ石灰ヲ製造シ衛生方面ニ使用ス
2、煙草吸殻ヲ医務室ニ於テ収集シ「ニコチン」水ヲ作リ是レニテ床ノ隙目ヲ拭カシメ蚤退除ヲ実施中 其ノ効果大ナリ
3、一回十分間ノ予定ニテ基本体操一日三回実施ヲ励行シ尚発汗後ノ体ノ手入ハ幹部監督ノ下ニ実施セシメアリ
4、生水飲用及民家立入リハ絶対的ニ禁止ス
5、本島ニアル「レプラ」患者約十名ヲ収容所ヘ退避セシメアリ
6、蠅取リ励行
7、炊事場ニ衛生部員ヲ派遣シ野菜ノ消毒ヲ確実ニ実施セシメ又衛生上ノ観点ヨリ積極的ナル指導ヲ実施セシメアリ
8、非常ノ際ヲ顧慮シ現地女子青年三十名ニ対シ救護教育ヲ四日間軍医ヲシテ実施セシメタリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 44年7月に沖縄に上陸した独立混成第15連隊(連隊長:美田千賀蔵大佐)は沖縄の中部に配備されたが、そのうち第3大隊は伊江島に守備隊と派遣されている。上の引用は、その第3大隊の陣中日誌における衛生に関する記述であるが、そこには当時「レプラ」とも呼ばれたハンセン病患者約10名を「収容所」に「退避」させたとある。
 当時、比較的ハンセン病患者が多かったとされる沖縄だが、軍はハンセン病を極度に警戒し、患者の住む民家に赤旗を立てて(あるいは赤い布を吊るしたともいわれる)立入禁止、接近禁止の目印を立てたほどであった。特に44年9月以降は「日戸収容」といわれる第9師団軍医の日戸修一による大規模な強制隔離、収容がおこなわれるが、その前段階である7月ころにおいても規模は別としてハンセン病患者の強制隔離、収容がはじまっていたことがわかる。
 独立混成第15連隊に関しては、他の部隊の陣中日誌にもハンセン病について記述がある。

陣中日誌
 独立混成第十五連隊第二機関銃中隊

七月七日 曇 金曜日
  [略]
 命令
三 会報
 (一)住民ニ癩患者アルニ付外出ニハ住民特ニ子供等ニ手ヲフレザルコト、外出先ヨリ帰営セル時ハ手ヲ洗ヒウガヒスルコト

(同上)

陣中日誌 第二号
 独立混成第十五連隊 第一中隊

七月九日(日曜日)晴 宿営地 嘉手納農林学校
 会報
一、住民癩病患者アルニ付外出時住民特ニ子供ニ手ヲ触レサル事、外出帰隊セルトキハヨク手ヲ洗フ事
  [略]

(同上)

 こうした記述からも軍がいかにハンセン病を警戒したか、住民(特に子ども)がハンセン病を患っているとして接触を警戒したかが伺える。また強制隔離がおこなわれた伊江島や「癩病」が警戒された嘉手納は、いうまでもなく飛行場建設がすすめられていた場所であり、早くから部隊が配備されていたところである。そうした場所であるからこそハンセン病への強い警戒と強制隔離が早くからすすめられてものと思われる。
 こうした軍によるハンセン病患者への警戒と強制隔離がおこなわれた背景には、そもそも当時においてハンセン病患者への差別、蔑視、偏見があったといえるが、沖縄においては軍民が混在し異常な近さで雑居するなかで、軍の資料に沖縄について「村民ノ衛生思想ハ皆無ナリ」「衛生思想極メテ幼稚」といった言葉が出てくることからも明らかなように、沖縄への差別や蔑視、偏見が警戒と強制隔離を助長していったことは容易に推測される。

戦跡と証言 名護市 愛楽園と戦争【放送日 2008年9月17日】:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」上(『季刊戦争責任研究』第40号、2003年夏季号)

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沖縄北部の屋我地島のハンセン病療養施設「愛楽園」の様子 陣中日誌における「収容所」とは愛楽園のことを指すと思われる 49年6月23日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-68-1】