【沖縄戦:1944年7月27日】伊江島地区警備隊、ハンセン病患者の隔離収容をおこなう
沖縄戦とハンセン病
この日、伊江島でハンセン病患者約10名が軍により隔離、収容される。この時期に伊江島に配備されていた独立混成第15連隊第3大隊の陣中日誌の「附録第三警報西第三号」には、この日の日付で以下のようにある。
44年7月に沖縄に上陸した独立混成第15連隊(連隊長:美田千賀蔵大佐)は沖縄の中部に配備されたが、そのうち第3大隊は伊江島に守備隊と派遣されている。上の引用は、その第3大隊の陣中日誌における衛生に関する記述であるが、そこには当時「レプラ」とも呼ばれたハンセン病患者約10名を「収容所」に「退避」させたとある。
当時、比較的ハンセン病患者が多かったとされる沖縄だが、軍はハンセン病を極度に警戒し、患者の住む民家に赤旗を立てて(あるいは赤い布を吊るしたともいわれる)立入禁止、接近禁止の目印を立てたほどであった。特に44年9月以降は「日戸収容」といわれる第9師団軍医の日戸修一による大規模な強制隔離、収容がおこなわれるが、その前段階である7月ころにおいても規模は別としてハンセン病患者の強制隔離、収容がはじまっていたことがわかる。
独立混成第15連隊に関しては、他の部隊の陣中日誌にもハンセン病について記述がある。
こうした記述からも軍がいかにハンセン病を警戒したか、住民(特に子ども)がハンセン病を患っているとして接触を警戒したかが伺える。また強制隔離がおこなわれた伊江島や「癩病」が警戒された嘉手納は、いうまでもなく飛行場建設がすすめられていた場所であり、早くから部隊が配備されていたところである。そうした場所であるからこそハンセン病への強い警戒と強制隔離が早くからすすめられてものと思われる。
こうした軍によるハンセン病患者への警戒と強制隔離がおこなわれた背景には、そもそも当時においてハンセン病患者への差別、蔑視、偏見があったといえるが、沖縄においては軍民が混在し異常な近さで雑居するなかで、軍の資料に沖縄について「村民ノ衛生思想ハ皆無ナリ」「衛生思想極メテ幼稚」といった言葉が出てくることからも明らかなように、沖縄への差別や蔑視、偏見が警戒と強制隔離を助長していったことは容易に推測される。
戦跡と証言 名護市 愛楽園と戦争【放送日 2008年9月17日】:NHK戦争証言アーカイブス
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」上(『季刊戦争責任研究』第40号、2003年夏季号)
トップ画像
沖縄北部の屋我地島のハンセン病療養施設「愛楽園」の様子 陣中日誌における「収容所」とは愛楽園のことを指すと思われる 49年6月23日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-68-1】