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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中37

注:画像は、国立文化財機構所蔵品統合検索システム
  ColBase (https://colbase.nich.go.jp) 
  "華厳五十五所絵巻断簡(普賢菩薩)",東京国立博物館 所蔵を一部加工

「普賢菩薩行品」― 菩薩の行願と、怒りの気持ちの静め方 ―

この品では、普賢菩薩が自身の行(普賢の行)について説法しているのであるが、一巡目では、”普賢の十大願”として知られている記載を見つけることが出来なかった。

二巡目の今回も、雑念と戦いながら読み進めたが、一巡目同様に、やはり見つけることが出来なかった。

そこで、別の幾つかの資料を読み進めるうちに、いわゆる”普賢の十大願”は、四十華厳(般若訳)に記載されていることが判った。〔現在読み進めているのは、訳が一番古いとされる、いわゆる六十華厳(仏駄跋陀羅訳)と言われるものである。〕

以下に、四十華厳のその部分を抜き出してみると、次のように説かれている。

 「應修十種廣大行願。何等爲十。一者禮敬諸佛。二者稱讃如來。
  三者廣修供養。四者懺悔業障。五者隨喜功徳。六者請轉法輪。
  七者請佛住世。八者常隨佛學。九者恒順衆生。十者普皆迴向」  

『大正新脩大蔵経』,「大方廣佛華嚴經」,Vol.10,No.293,844b

四十華厳の漢文を読み下すと、以下の十種の大行願が挙げられている。

 1)一つには諸仏を敬う
 2)二つには如来を称賛する
 3)三つには広く供養を修める
 4)四つには業障を懴悔(さんげ)する
 5)五つには功徳を随喜する
 6)六つには転法輪を請う
 7)七つには仏がこの世に住するを請う
 8)八つには常に仏に学ぶことに随う
 9)九つには恒に衆生に順う
 10)十には普く皆回向する

これに対して、現在読み進めているいわゆる六十華厳では、偈において”願”としては、以下のことが示されている。

 「我世間の燈(とう)と為り、功徳をもって身を荘厳し、十力智を具足せ
 ん。一切諸の群生(ぐんじょう)は、貪瞋痴熾燃(しねん)なり、我為め
 に、無量の悪道の苦を徐滅すべし」
 
    〔旧字体を新字体に改めた。〕  

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,p.459

明確な”願”としては、四十華厳に比べて、「世間を照らす燈となり、衆生の苦を徐滅する」という、シンプルなものではあるが、行という点では、以下のように細かく説かれている。

十の正法 (※ 但し、瞋恚の心を起こさないという前提が示されている)
 1)一切の衆生を捨てず
 2)諸の菩薩に於いて如来の想いを生じ
 3)常に一切の仏法を誹謗せず
 4)諸仏の刹(くに)に於いて無尽の智を得
 5)菩薩の所業を恭敬し信楽して
 6)虚空法界に等しき菩提の心を捨てず
 7)菩提を分別して仏力を究竟して彼岸に到り
 8)菩薩の一切諸弁を修習し
 9)衆生を教化して心に疲厭無く
 10)一切の世界に於いて受生を示現して而も楽箸(ぎょうじゃく)せず

 ※『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,pp.452-455を基にまとめた。 

そうして、さらに、以下の行を行うことで、完全な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)へ到るとしている。

 十種の正法
  ⇒ 十種の清浄法を摂取
    ⇒ 十種の正智具足
      ⇒ 十種の巧随順入(ぎょうずいじゅんにゅう:入法)に入る
        ⇒ 十種の直心
          ⇒ 十種の巧方便法(ぎょうほうべんほう)を得る
            ⇒ 阿耨多羅三藐三菩提(完全な悟り)を得る

※『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,pp.454-457を基にまとめた。
 
四十華厳と、六十華厳の二つを比較し、意図するところを嚙み砕くならば、同じような部分も見えなくはないが、しかしながら、同じ経典とは思えぬほど、変わっているとも言える。

特に時代を経た四十華厳においては、”懴悔(さんげ)”が行願に於いて示されているものの、六十華厳では、それは示されていない。(考えてみれば、懴悔文〔さんげもん〕として知られる偈も、出典は四十華厳である。)その代わり、六十華厳においては、衆生に関する”行”が二つ示されており、この点に四十華厳との違いが有ると言える。

さて、今回の二巡目で一番気になったのが、行の前提とされる、瞋恚(しんに:怒り)を起こさないということである。

行を行うことが難しいことはもちろんであるが、それ以上に、怒りの気持ちを起こさないということは、かなり難しい。では、どのように処していけばよいのであろうか。

残念ながら、「普賢菩薩行品」では、怒りの気持ちをどのように静めるのかは、説かれていないのである。そこで、古い時期に書かれたとされる、南伝の『スッタニパータ』を紐解いてみると、托鉢の行について、ナーラカという僧が、釈尊に尋ねた際に、釈尊は、次のようにお答えされている。

 「村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
 (罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静
 に、高ぶらずにふるまえ。〔中略〕『(施しの食べ物を)得たのは善かっ
 た』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合に
 も平然として還ってくる。あたかも(果実をもとめて)樹のもとに趣い
 た人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなもの
 である。」

  〔スッタニパータ 第702偈-第712偈〕

中村元訳,『ブッダのことば―スッタニパータ』,岩波書店,2014,pp.152-154

確かにそうである、普通、果樹に向かって、「どうして、実がなっていない!」と怒る人はいない。果樹は、こちら側の思惑(実を得たいという気持ち)察して、実をつけてくれる訳ではないのである。また、怒ったところで、すぐに果樹が実を急につけてくれる訳もない。

実が欲しいのは、こちら側の問題であって、果樹にとっては、こちら側の気持ちや、要望などは、まったく関係ないのである。

卑近な例ではあるが、怒りという場面で、いつも当方が若いころに、先輩に言われたことを思い出す。

「自分の力が及ぶところと、及ばないところを分けて考えないと駄目よ。雨が降ったからって、お天道様に文句を言う人はいないでしょう。」

その方が、釈尊のこの言葉を知っていたかどうかを確認するすべがないのだが、本当にそうである。

なかなか、釈尊や、先輩のような心境にはとうてい成れていないのであるが、他人の態度や、言葉にイライラして、怒りの気持ちが起こった時には、いつも思い出すのである。

― 追補 ―

記事を公開した後、聖徳太子様が、十七条の憲法に於いて、怒りについて
触れていたことを思い出したので、追記したい。

〔原文〕
十曰。絕忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。
我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。〔以下省略〕

〔当方の意訳〕
十に曰く、
・忿(いかり:おこって頭にくること)を絶ち、
 瞋(いかり:かっとして目を見開くこと)を棄てよ。
・他人が自分と違う意見だからといって怒(腹をたてること)って
 はならない。
・人はみなそれぞれの心〔考え・思い〕があるものである。
・その心〔考え・思い〕はそれぞれ執着しているところがある。
・その人は、自分ではなく、自分もその人という訳ではない。
    〔その人が正しいとしたことでも、自分はそうではないと思えな
  かったり、自分が正しいとしたことが、その人にとっては、
  そうは思えないことがある。〕
・自分決して聖人という訳でもなく、その人も愚かな人という
 訳でもない。
・自分も、その人も、ともに凡夫にすぎないのである。

仏教を深く学ばれている、聖徳太子様だけに、含蓄のあるお言葉
である。

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