『華厳経』睡魔・雑念 格闘中46
― 四無量心、三毒(貪瞋痴)と瞑想 心の処し方 ―
『入法界品』を読み進めている訳であるが、観仏(念仏)行は、かなり高度で、とてもすぐに修習できるとは、自分自身では思えないのである。
しかしながら、海幢比丘が、善財童子に現すイメージの中に、”心の処し方”について現時点でも役に立つような、示唆が述べられているので、『華厳経』、『南伝大蔵経』、『摩訶止観』の3つの資料を基に、改めて確認したい。
■ 『華厳経』 「入法界品」
まずは、海幢比丘が現したイメージ部分を確認してみる。
『華厳経』の偈以外の部分では、大乗以前の伝統的な仏教の行について述べられている部分が散見されるのであるが、この海幢比丘が、現わしているイメージにもそれが描かれている。
ここでは、人が抱える性情や心が抱える傾向に対しての対処療法的な方法が示されていると言えよう。
自分の考え/想いに執着する者 ⇒ 不浄のものを思い浮かべる瞑想
欲望が多い者 ⇒ 慈心を思う瞑想
怒りが多い者 ⇒ 縁起を考察する瞑想
愚痴が多いもの ⇒ 智を以てあらゆる出来事を観る瞑想
では、次に、伝統的な上座部に伝わる、『南伝大蔵経』から、釈尊のお言葉を確認したい。
■ 『南伝大蔵経』 「大ラーフラ教誡経」
これに対して、いわゆる大乗仏教以前の、いわゆる上座部仏教の内容が伝わっている、『南伝大蔵経』の釈尊がラーフラ師に対して説法した内容”四無量心(四梵住)”が示されているとされる部分を確認してみたい。
ここでの釈尊のラーフラ師への示唆をまとめると、以下のようになろう。
怒りの心 ⇒ 慈の修習(瞑想)
害したいという心 ⇒ 非の修習(瞑想)
不快な心 ⇒ 喜〔ここでは善〕の修習(瞑想)
妨げになる心 ⇒ 捨〔ここでは中庸〕の修習(瞑想)
貪りの心 ⇒ 不浄の修習(瞑想)
我執の心 ⇒ 無常の修習(瞑想)
釈尊のご意見を概観すると、現れている心の状態を、把握しつつそれに対して直接対峙せず、別の修習を行うことが示されている。言わば、いったん保留や棚上げにして、別のベクトルの心の状態を修習せよということであろう。
たしかに、上手くいかない時に、そのことを営々と考え思い悩んだとしても、あまり良い考えや対処方が浮かばない時がある。忘れるということでもなく(忘れられないだろうが)、いったんその心の状態を手放してしまうとでも言えようか。
■ 『摩訶止観』 ”対治の治”
心の問題に関わる話として、取り上げられることが多い、天台大師の名で知られる智顗の『魔訶止観』では、主に瞑想時の雑念(貪瞋痴)への対処法として、次のようにまとめられている。
1)対治 ・・・先に挙げた決まった対応をとること
2)転治 ・・・先に挙げた組み合わせとは別の対応をすること
3)不転治 ・・・心の状態が変わってしまっても、これまでの対応の
ままでいること(対応を変えない)
4)兼の治 ・・・複数の心の状態には複数の対応を採ること
5)具の治 ・・・全てを兼ね備えた対応を行うこと
※『魔訶止観』ならびに、蓑輪顕量先生の『瞑想でたどる仏教
心と身体を観察する』,NHK出版,2021〔Eテレ NHKこころの時代
のテキストpp.120-133を基にまとめた。〕
天台大師の教えでは、釈尊の示された方法を、かなり柔軟に取り入れていることが判る。
そうして、天台大師は、伝統的な心の処し方の最後に、大乗としての心の処し方として、”第一義悉檀”と呼ばれるものを示しているのである。
先の蓑輪先生のテキストによると、”第一義悉檀蜜”とは”一切を空とする”瞑想としている。
天台大師が仰るように、”空”の瞑想のような、いわゆる総合感冒薬のような、喉の痛みや、咳、発熱など、様々な症状に対応するような、次元までいければ良いのだが、なかなかそこまでたどり着かないのである。
ただ、伝統的な上座部が示すような、喉の痛み用の対応、咳への対応、発熱への対応のように、まずは、個別の対応でも、試してみるというのも、ひとつの手では無いだろうか。