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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中32

「十明品」・「十忍品」

十地品が終わるやいなや、唐突に普賢菩薩が登場し、この「十明品」と、「十忍品」での説法となる。とは言え、「十地品」の最後の方は、”知ること”、”智慧”がテーマとなっているので、「十明品」のテーマとなる”智明”とは繋がりがあり、話の流れとしては、そこまで違和感はないのであるが、それにしても、いきなりの普賢菩薩の登場の唐突さは否めない。

さて、「十明品」では、菩薩が身につける、十の智明について説かれるのであるが、その十種をまとめてみると以下のようになる。

 1) 他心をよく知る智明 ・・・心念を知る
 2) 無礙の天眼智明 ・・・生死を知る
 3) 無礙の宿命智明 ・・・過去の宿命を知る
 4) 無礙の智明 ・・・ 未来のことを知る
 5) 無礙の天耳智明 ・・・聞いて忘れない
 6) 無礙の神力に安住する智明 ・・・無量の諸行を具足
 7) 一切の言音を分別する智明 ・・・ 様々な言語を理解する
 8) 無量阿僧祇の色心荘厳を出生する智明 ・・・一切の色法を知る
 9) 一切諸法の真実智明 ・・・ 諸法が縁より起こることを知る
 10) 一切諸法の滅定の智明 ・・・ 寂滅〔生死を度脱する境地〕に随順
                   する

        ※ 『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,pp.325-336を基に
     当方にてまとめた。

ここまでまとめてみたところで、初期の仏教が説かれている阿含経においてよく見られる”神通力”と内容がよく似ていることに気が付いた。いわゆる六神通というものである。木村清孝先生も、ご著書『華厳経入門』(KADO
KAWA 角川ソフィア文庫 ,2015)の中で、この「十明品」について、「神通の思想を展開させたものと見ることができましょう。」(同書p.188)と指摘されておられる。

比較するために、六神通を以下に記してみる。(『望月仏教大辞典 第五巻』,世界聖典刊行協会,1972,p.5060より 抜粋)

① 神足通 ② 天耳通 ③ 知他心通 ④ 宿命通 ⑤ 天眼通 ⑥ 漏尽通

順番の違いはあれど、概ね似通っていることが分かる。追加されている部分としては、”法”に対しての智明であろうか。初期の仏典では、釈尊や如来に対してその類まれなることを示す例ととして、六神通のような神秘的な能力が示されていたのであろうが、仏教の学習者としての菩薩では、やはり、学習の対象としての”法”(縁起等)も重要であると考えられていたのであろう。

「十明品」につづく、「十忍品」では、菩薩が十種の”忍”について説かれて
いるのであるが、この”忍”が分かるようで、分からない。残念ながら、いつも頼りにしている望月信亨先生の仏教辞典にも載っておらず、漢字そのものの意味を確認すべく、角川の『新字源』を当たってみると、以下のように説明されている。

 忍・・・心のうちにたえしのぶ

2巡目の「十忍品」読了後のここでの文脈からすると、以下の意味になるであろうか。

「忍」・・・初めは納得のいかないことであっても、それを深く了解し、
      心から納得する。

菩薩が深く理解しなければいけないこととして、以下の十種が、挙げられている。

 1) 随順音声(ずいじゅんおんじょう)忍 ・・・真実の法を聞いて
                         驚かない
 2) 順忍 ・・・寂静に随順する
 3) 無生法忍 ・・・諸法の生有ることを見ず、滅有ることを見ず
 4) 如幻忍 ・・・ 諸法は皆悉く、幻の如しと知る
 5) 如燄(にょえん)忍 ・・・一切世間は皆悉く燄(ほのう)
                 のように定まらないと観ずる
 6) 如夢忍 ・・・一切の世間は皆夢の如しと観ずる
 7) 如響(にょこう)忍 ・・・ 一切の法は皆悉く響きと知る
 8) 如電忍 ・・・皆悉く照らして明浄ならしめる
 9) 如化(にょけ)忍 ・・・ 一切の世間は皆悉く化の如しと知る
 10) 如虚空忍 ・・・ 一切の世界は虚空の如しと知る

    ※ 『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,pp.337-348を基に
     当方にてまとめた。

夢・幻・虚空などの言葉から、十種の”忍”は全体的としては、固定化されたようにものごとを見ずに、”無常”(当てにならない・不確定・移ろうもの)であると観ることであろう。そして、”忍”の語が選ばれているように、納得がいかないことであっても、その起こっていること(現象)をじっくりと見据えて了解して行くということなのかも知れない。

『華厳経』とは違うお経(『般若心経』)についての著書の中で、友松圓諦先生は以下のように、日常生活の工夫について述べていらっしゃる。

 「この世の中は時々刻々として流れうつってはいる。これが本当の姿で
 す。〔中略〕うつりゆくすがたをかりそめに、やんわりと、そのままのす
 がたにうけとってゆくところに、真空妙有の日常生活があり、顛倒夢想
 を遠離した般若の生活があるのではあるまいか。」

村松圓諦,『般若心経講話 改定新版』,大法輪閣,1983,pp.227-228

夢・幻であるならば、日々起こる出来事に固執せず、”やんわりと”、「そんなものであろうか」と受け取っていければ良いのであるが、言うは易し、行うは難しである。

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