『華厳経』睡魔・雑念 格闘中55
「入法界品」 ⑭ 甚深妙徳離垢光明夜天、喜目観察衆生夜天、
妙徳救護衆生夜天
― 仏の光明の世界・四正勤(四正断)―
善財童子は、しばらくは、夜天のもとを訪ねることになるのであるが、今回、善財童子が訪れる夜天との面談の場面では、特に光まばゆい世界が描き出されているのである。
では、光あふれる夜天との出会いの旅を見て行こう。
■ 甚深妙徳離垢光明夜天 ― 現前三昧 ―
婆裟婆陀夜天が、自身の菩薩行について述べた後、この閻浮提に甚深妙徳離垢光明と呼ばれる、”夜天”が居り、そこに行って、別の菩薩の行について、尋ねてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。
甚深妙徳離垢光明夜天の下を善財童子が訪れると、夜天は、自身の菩薩の行について、以下のように告げるのである。
現前三昧とは、仏・如来が、そのお姿を、自分の目の前にあたかも現している状況を観想することであろうが、そのお姿が、光に溢れ、まるで海の波のように自分に降りかかって来る、光り輝く様子がここでは、表わされている。
仏像や、仏画では、以下の立像で表わされている、いわゆる光背(後光)などや、金色に塗ることで、その光を示しているとされる。
残念ながら、私自身は、仏のお姿を見るという三昧も行えず、仏と出会ったような体験も(夢に於いてでさえ)無いのであるが、仏像や仏画を見た時の意図せずに”とうとい”、”ありがたい”と、思わず湧き上がって来る気持ちや手を合わせてしまう行為は、現前三昧の入り口に近いのではないかと思うのである。三昧とは違うであろうが、仏画や仏像を見た時の、その気持ちは大切にしたい。
■ 喜目観察衆生夜天 ― 十波羅蜜 ―
甚深妙徳離垢光明夜天が、自身の菩薩行について述べた後、そう遠くはない場所に喜目観察衆生という名の夜天が居るという、そこに行って、別の菩薩の行について、尋ねてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。
そうして、善財童子が喜目観察衆生夜天のもとにたどり着くと、夜天の以下のような様子を見るのであった。
そうして、その途中に於いて、十波羅蜜の行を行うことが示される。
以前にも記したが、漢訳の『十住経』(『新国訳大蔵経 十住経他 ⑤華厳部4』)の木村清孝先生の注記(前掲書p.35)を基に、十波羅蜜について簡単にまとめると以下のようになる。
1)布施波羅蜜・・・惜しみなく施すこと〔壇波羅蜜〕
2)持戒波羅蜜・・・戒律をしっかり守ること〔|尸《し》波羅蜜〕
3)忍辱波羅蜜・・・耐え忍ぶこと〔|羼提《せんだい》波羅蜜〕
4)精進波羅蜜・・・努力しつづけること
5)禅定波羅蜜・・・深く心を静めること
6)智慧波羅蜜・・・諸法が空であることを確信すること
〔般若波羅蜜〕
7)方便波羅蜜・・・智慧を現実化させること
8)願波羅蜜 ・・・智慧を求めること
9)力波羅蜜 ・・・邪見や異論を退けること
10)智波羅蜜 ・・・ありのままに全てを知ること
※注: 上記の6)までがいわゆる”六波羅蜜”
妙雲を出だす部分のみ切り取って書き示したが、喜目観察衆生夜天は衆生の様々な状況を観察し、それに応じて様々な色雲・音声を出だし、衆生を度脱させることが述べられているのである。
■ 妙徳救護衆生夜天 ― 無量の光明 ―
喜目観察衆生夜天が、自身の菩薩行について述べた後、そう遠くはない場所に妙徳救護衆生という名の夜天が居るという、そこに行って、別の菩薩の行について、尋ねてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。
そうして、善財童子が妙徳救護衆生夜天の下にたどり着くと、夜天は、善財童子に以下のように光輝く世界を見せるのであった。
眉間の白毫とは、下記のように仏画や仏像にて額に示されるものであるが、そこから大光明を放ち、衆生の愚痴闇冥を除滅させるとなると、夜天というよりも、既に如来ではないのかという気もするが、いずれにしても、この夜天も、仏の光明を善財童子に見せるのであった。
◆ 四正勤(四正断)― 今、じゃあどうする? ―
今回善財童子が出会った夜天の菩薩の行は、(十波羅蜜の一部を除いて)いずれも到底、私たちが普段行えるような”行〔ぎょう〕”とは言えないのだが、甚深妙徳離垢光明夜天の説法中に、いわゆる、”四正勤(四正断)”とされるものが説かれており、この点に着目したい。
四正勤とは、以下の内容を示す。(漢文は代表的な表現・当方にて意訳)
未生悪令不生 ・・・いまだ起こしていない悪いことは起こさないよう
に気を付ける
已生悪令滅(断)・・・既に起こしてしまった悪いことは、止めるよう
に気を付ける
未生善令生 ・・・いまだ起こしていない善いことは起こすように
努力する
已生善令増長 ・・・既に起こした善いことは、益々増やすように
努力する
四正勤は、阿毘達磨(三蔵:経・律・論)にてまとめられた、煩悩を滅するとされる、三十七助道品のうちの四つとされるが、木村泰賢先生によれば
「それらの一々を歴修せねばならぬと限ったことではなく、寧ろ原始仏教に従えば、その何れか一つを専修することであった」(木村泰賢全集刊行委員会編,『木村泰賢全集 第5巻 小乗仏教思想論』,大法輪閣,1991,p.663)としている。
ありがたいと思うのは、悪いことをすることが前提になっている点である。
自分自身を振り返ってみて、悪いことをまったくして来なかったとは言えない。それに対してこの四正勤は、”やってしまったことはしょうがない、これから、やらないようにするにはどうするかだ”と言っているように思える。
過去を振り返り反省しつつも、未来に向けて、今、「じゃあどうする?」と問われているのである。