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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中27

「十地品」― 燄慧地・難勝地  ―  三十七助道品について

解脱月菩薩の請いを聞き、さらに金剛蔵菩薩が、説法を続けるのであるが、続く第四番目の燄慧地と、第五番目の難勝地には、共通のテーマが流れているように思える。

それは、阿毘達磨で言うところの、三十七助道品である。

 「第四地〔燄慧地〕に入ることを得。〔中略〕身受心法、内外の四念処
 を習し、〔中略〕四正勤を修習し、四如意足を修し、五根を習行し、及以
 て五力を修し、七覚意を修習し、八正道を行ず。」
 
  〔旧字体を新字体に改めた。〕  

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,pp.232-233

 「第五地〔難勝地〕に入ることを得。四念処を弓と為し、信五根を箭と為
 し、四正勤を馬と為し、四如意を車と為し、五力を以て鎧と為し、〔中
 略〕七覚を華鬘と為し〔中略〕四如意を足と為し、正念を頭項(こうべ)
 となし」
 
  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,p.242


三十七助道品について、木村泰賢先生は、次のように解説されている。

 「やや進んだ阿毘達磨となれば八正道もさることながら、これに四念
 処、四正断、四神足、五根、五力、七覚支を加えて、いわゆる七科三十
 七助道品を挙げるのが通例である。けだし八正道以外の他の六科も、ま  
 た、種々の意味において八正道と相並ぶほどの重要さを有する点からそれ
 らを一括して三十七としたものであろう。〔中略〕解脱を得るためにはそ
 れらの一々を歴修せねばならぬと限ったことではなく、寧ろ原始仏教に従
 えば、その何れかの一つを専修することであったけれども、機と場合との
 異なるものがあるので、いわば応病与薬の意味で仏陀は種種の方式を示さ
 れたものである。」

木村泰賢全集刊行委員会編,『木村泰賢全集 第5巻 小乗仏教思想論』,大法輪閣,1991,pp.662-663

残念ながら、木村先生の全集にて、三十七助道品の内容の説明がされていない為、木村清孝先生が、校正注記をされた、『十住経』〔十住品の単独のお経として漢訳されているもの〕の注記の部分、および、相応部経典の無為相応(南伝大蔵経 相応部経典 五)を利用し、以下にまとめてみた。

― 四念処 ―
1)身念処・・・身体を観察
2)受念処・・・三受(苦・楽・非苦非楽)を観察
3)心念処・・・心を観察
4)法念処・・・法(ダルマ)を観察

― 四正勤 ―
1)断断 ・・・既に生じた悪を除くよう勤める
2)律儀断・・・まだ生じていない悪が起きないよう勤める
3)随護断・・・まだ生じていない善を起こすよう勤める
4)修断 ・・・既に生じた善を大きくするように勤める

― 四如意足(四神足) ―
1)欲如意 ・・・ 強い意欲
2)精進如意・・・ たゆまぬ努力
3)心如意 ・・・ 動じない心
4)思惟如意・・・ 深い観察

― 五根・五力 ―
1)信力 ・・・ 教えを信じること
2)精進力・・・ 修行に努めること
3)念力 ・・・ 正しく憶念すること
4)定力 ・・・ 心を集中させること
5)慧力 ・・・ 道理を知ること

 ※注: 五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)が培われて
     五力となる為、ここでは2つをまとめてみた。

― 七覚支 ―
1)念覚支 ・・・ 正しく憶念すること
2)択法覚支・・・ 真意を見分けること
3)精進覚支・・・ 精進すること
4)喜覚支 ・・・ 心が喜びに満たされること
5)軽安覚支・・・ 心を軽快な状態に置くこと
6)定覚支 ・・・ 心を統一すること
7)捨覚支 ・・・ 執(とら)われを捨て去ること

― 八正道 ―
1)正見 ・・・ 正しく見ること
2)正思 ・・・ 正しく思惟すること
3)正語 ・・・ 正しい語を使うこと
4)正業 ・・・ 正しい行いをすること
5)正命 ・・・ 正しい生活を送ること
6)正精進・・・ 正しい努力をすること
7)正念 ・・・ 正しい思いを保つこと
8)正定 ・・・ 正しい精神統一を行うこと

では、なぜ、大乗仏教の旗印である、菩薩に於いて、初期仏教からの修行法について説かれているのであろうか。

困ったときには、常に望月信亨先生の『望月仏教大辞典』に当たるのであるが、三十七品(助道品)の解説に、大智度論にその記載がある旨の示唆が書かれていた。残念ながら、当該部分の和訳が手に入らず、以下、漢訳に於いて確認した。

 「論問曰。三十七品。是声聞辟支仏道。六波羅蜜是菩薩摩訶薩道。
 何以故於菩薩道中説声聞法。答曰。菩薩摩訶薩。応学一切善法一切道。 
 如仏告須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。悉学一切善法一切道。」
  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『大正新脩大蔵経』,「大智度論」,Vol.25,No.1509,197b

「論に問うて曰く、三十七品は是れ声聞縁覚(独覚)の道であり、六波羅
蜜は、是菩薩の道である。ではなぜ、菩薩道に於いて、声聞縁覚の法が説か
れるのであろうか。答えて曰く、菩薩は、まさに一切の善法・一切の道を学ぶべきだからである。それは、釈尊が須菩提に説かれたように、菩薩は、般若波羅蜜を行ずるのであるが、悉く一切の善法、一切の道も学ぶのである。」〔当方による書き下し・意訳〕

木村泰賢先生の、先の論では、三十七助道品は、釈尊対機説法として、様々に説いたものをまとめたものとしている。その意味からすれば、釈尊の後姿を追って歩んでいる菩薩としては、初期の仏教の考え(声聞縁覚の道)であろうが、釈尊の示されたものとして修習していくべきということなのであろう。

それにしてもである、あまりにも多岐に渡り、失礼ながら、重複もあり、なかなか、すべてを実践というのは、あまりにも遠い道のりである。認知心理学では、人間の短期記憶は7±2と言われているそうである。(昨今は4±1という話もある。)短期の記憶の話ではないが、六波羅蜜はうまくまとめられていると、改めて思うのである。(実践はなかなかではあるが。)


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