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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中42

注:画像は、国立文化財機構所蔵品統合検索システム
  ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
  "華厳五十五所絵巻",東京国立博物館 所蔵の一部を切り取って利用

「入法界品」 ② 文殊菩薩と善財

文殊菩薩は、偈を述べ終わると、なぜか唐突に、釈尊に挨拶も早々に南方に辞退してしまう。その姿を見て、舎利弗は、釈尊に挨拶を行ったのち、その足で、多くの比丘を引き連れ、文殊菩薩の元へ向かうのであった。

そうして、文殊菩薩の元を訪れた、舎利弗ならびに比丘らに仏地(菩薩地)を得るための十の大心を次のように述べるのである。

 ― 十の大心 ―
 1) 広大の心を発(おこ)して、一切の善根を長養し
    不退を究竟して心に厭足(えんそく)無き事
 2) 一切の仏を見たてまつりて、恭敬し、供養して心に厭足無き事
 3) 正(まさ)しく一切の仏法を求めて、心に厭足無き事 
 4) 徧(あまね)く菩薩の諸波羅蜜を行じて、心に厭足無き事
 5) 一切の菩薩の三昧を具足して、心に厭足無き事
 6) 一切三世の流転に於いて心に厭足無き事
 7) 仏刹を厳浄(ごんじょう)し、十方に充満して、心に厭足無き事
 8) 一切の衆生を教化し成就して心に厭足無き事
 9) 一切の刹(せつ)に於いて、一切劫の中に菩薩の行を行じて
    心に厭足無き事
 10) 広大の心を発して一切の仏刹微塵に等しき諸波羅蜜を修習し
    一切の衆生を度脱して仏の十力を具えしめて、心に厭足無き事

 ※ 国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,pp.172-173を基にまとめた。

ここでの十の大心は、これまで、説かれていたことに共通しており、取り立てて、目新しいものでは無いのであるが、敢えて、他の品との違いを挙げるとすれば、「厭足無き事」が強調されている点であろうか。菩薩の修行は、営々と続けることが前提とされる点を強調していると言えよう。

さらに、文殊菩薩らは、移動を続けるのであるが、覚城の東、荘厳幢沙羅林の中の大塔廟に住した際に、そこで、いよいよ、『入法界品』の主人公である、善財を目に留めるのである。

 ― 善財童子 ―

文殊菩薩が、5百人もいる童子の中で、善財童子に目が留まったのは、以下の理由であると思われる。

 「此の童子は、已曾(むかし)過去の諸仏を供養し、深く善根を植え、常
 に清浄を楽(ねが)い、善知識に近づき、身口意浄(きよ)くして、菩薩
 の道を修し、一切智を求め、諸仏の法を修し、心の浄きこと空の如くし
 て、菩薩の行を具えたり。」

   〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,p.176

このことからすると、全く、仏法の右も左も判らないような童子という訳でなく、先に文殊菩薩が述べた、十の大心の概ね殆どを兼ね備えているように思えるのである。

文殊菩薩らは、さらに南方に遊行するのであるが、善財童子はこれに随って、次のように偈を誦している。

 「愚痴の闇(あん)に覆蔽(ふくへい)せられ、三毒常に燦(さか)んに
 燃え、〔中略〕貧愛(とんあい)に纒縛(てんばく)せられ、諂曲は正行
 を壊(やぶ)り、疑惑は慧眼を障(さ)えて、諸の邪道に流転す、慳嫉
 (けんしつ)に纒縛せられ、餓鬼の難に趣向し。生老病死逼りて、愚痴は
 趣輪を転ず。」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,p.177

人という存在自体の苦しみを普遍的に述べているのか、あるいは、自身のことを言っているのか不明ではあるが、とても、童子と呼ばれるような、幼い子供の発言とは思えない。しかし、既に、過去の人生にて、修行を行っていた身であることを、鑑みると、さもありなんといったところであろうか。

そうして、善財童子は、普賢菩薩に、以下のように請うのである。

 「月王〔おそらく、文殊菩薩を称えて〕、願はくは我を照したまえ、
 〔中略〕大師、願わくは我を度したまえ、〔中略〕我を済(すく)い衆
 難を免かれしめたまえ」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,p.178

― 文殊菩薩の助言 ―

これに対して、文殊菩薩は、善財童子に、次にように助言するのである。

 「応(まさ)に善知識を求めて、親近(しんごん)し恭敬し、一身に供養
 して厭き足ること無く、菩薩の行を問うべし、『云何(いか)んが菩
 薩の道(どう)を修習し、云何んが菩薩の行を満足し、云何んが菩薩の行
 を清浄にし、云何んが菩薩の行を究竟し、云何んが菩薩の行を出生
 し、云何んが菩薩の道を正念し、云何んが菩薩の境界(きょうが
 い)道を縁じ、云何んが菩薩の道を増広し、云何んが菩薩の普賢行
 を具するや』と。 」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,p.181 

こうして、これ以降、善財童子は、様々な善知識(仏道を供にする仲間・師)と出会い、先の”菩薩の行に対する問い”を問い続けるのである。

文殊菩薩が、ここで、様々な者に色々と尋ねよといった、真の意図は何であったのだろうか。私には、先に強調された、”厭足無き”ということが効いているのではないかと思わざるを得ないのである。

此処までの『華厳経』の立場からして、決して固定的な状態というのは、どのような事象に対しても想定されていないのである。それはつまり、見方が違えば、まるで違って見える景色のように、様々な立場を知ることにより、決して固定化されない”菩薩の行”というものがありうることを示していると言えよう。そうして、厭足無きまでに問い続けるという態度こそ、善財童子、ひいては、読み手である我々に望まれていると言えよう。

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