『華厳経』睡魔・雑念 格闘中41
注:画像は、国立文化財機構所蔵品統合検索システム
ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
"釈迦三尊像",東京国立博物館 所蔵の一部を切り取って利用
「入法界品」 ① 導入部(菩薩と、十大弟子と、相即即入)
この「入法界品」は、『華厳経』で最も文章量が多い品であるだけでなく、重要な品でもある為、この「入法界品」も、先の「離世間品」と同様に、複数回に分けて確認して行きたい。
― 菩薩と十大弟子 ―
この品は、釈尊が祇園精舎(六十華厳では、祇樹給狐独園の漢訳)の大荘厳重閣講堂(だいしょうごんじゅうかくこうどう)に於いて、五百人の菩薩と、五百人の声聞と、諸の天王とが一堂に会している場面から始まる。
そうして、釈尊は、師子奮迅という名前の三昧に入り、重閣講堂が宝や、華などで様々に荘厳されるのであるが、そんな中、十方(東・南・西・北・東北・東南・西南・西北・下・上)から如来、その国にいる菩薩らが祇園にいらっしゃる。
しかし、そこに集まっている、声聞であるところの、舎利弗、目連など、いわゆる釈尊の十大弟子は、如来はおろか、菩薩の功徳や清浄の法身を見ることが出来ないとしているのである。その理由について、次のように説明されている。
別のお経では有るが、いわゆる『維摩経』として知られるお経においても、十大弟子は、維摩様のお見舞いに行かない理由を述べ、維摩様にどのような指摘をされたのかを述べているのであるが、この『華厳経』では、もっとその手前の、自分だけの悟りを目指し、他者(衆生)を省みない態度がそもそもいけないと、ここまでの『華厳経』の主張を、わざわざ釈尊の十大弟子のお名前を挙げ、指摘しているのである。
そうして、菩薩について、明浄願光菩薩は、偈において、「菩薩の大智慧は、一切能(よ)く壊(やぶ)る莫(な)く、諸の乱想を遠離して深智の地を究竟せり。」として、讃嘆している。
― 相即即入(そうそくそうにゅう) ―
この「入法界品」の最初に、様々な菩薩のお名前を挙げているのであるが、中でも、普賢菩薩と、文殊菩薩が中心となって、話が進んでいくのである。
それはまさに、こちら側から見て、左側に白象に乗られた普賢菩薩と、右側に獅子に乗られた文殊菩薩という構図で知られる”釈迦三尊像”の画そのものの世界である。
ここまでの、『華厳経』の世界をまとめるかのように、この「入法界品」ではお二人の菩薩は、それぞれ偈に於いて、以下のように述べている。
・ 普賢菩薩
・ 文殊菩薩
『華厳経』の別の個所の指摘では有るが、同じような表現に対して、以前、華厳宗の管長をされていた、森本公誠先生は、次のように述べておられる。
少し長くなるが、『華厳経』に於ける華厳宗の考え方がよく判る解説となっているため、引用したい。
ここで、森本公誠先生は、「相即」も、「即入」も、同じ事象を、視点を違えて、表現しているにすぎないとしており、そうしてそれは、「重々無尽」に帰結し、いわゆる「空」という見方が下敷きになっているとおっしゃっておられるのである。
残念ながら、当方の浅い読みでは、ここまでの『華厳経』の読みで、このような深い考えには至らないが、歴史やあるいは、自分自身のこれまでを考えても、意外な所で意外な繋がりを感じることがある。
とは言え、「あの一言を言わなければ」や、「あそこであのような態度に出なければ」など、反省することばかりではあるのだが・・・。