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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中38

「宝王如来性起品」 ― 気付きということ ―

この、「宝王如来性起品」は、『華厳経』の中でも、かなり異質な印象を持っている。それは、普賢菩薩の以下のような発言に拠るのである。

 「仏子よ、此の経を名(なづ)けて、一切諸仏の微密法蔵と為す、一切の
 世間は思議すること能わず、〔中略〕仏子よ、是(かく)の如きの経典は
 但不思議乗に乗ずる菩薩摩訶薩の、一向専心に菩提を求むる者の為にのみ
 分別(ふんべつ)し、解説(げせつ)して、余人の為にせず。何を以ての
 故に、此の経は一切衆生の手に入らず、唯菩薩をば除く。」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,p.545

まるで、映画の中で、その登場人物たちが、映画を見ているような構成になっており、『華厳経』の世界の中で、別のお経が説かれているような構成になっているのである。

木村清孝先生は、ご著書の『華厳経入門』で、そのことに触れ、以下のように述べていらっしゃる。

 「本章も、もとは独立した一経典でした。〔中略〕『如来興顕経』が、す
 でに早く西晋の元康元年(291)に敦煌出身のダルマラクシャ(竺法護、
 239-316)によって訳出され、現在まで伝えられていることから明らかで
 す。また近年、名古屋の七寺(ななつでら)の一切経の調査で分かってき
 たことですが、本章はおそらく『六十華厳』の訳出後に一群の人びとによ
 って抜き出されて『如来性起微密蔵経』として流布し、これが日本にも伝
 えられてきておりました。」

  〔横書きに書きだした為、一部の漢数字を算用数字に改めた。〕

木村清孝,『華厳経入門』,KADOKAWA(角川ソフィア文庫),2015,pp.204-205

もともとが独立したお経として有ったものが、『華厳経』に取り込まれ、さらに今度は抜き出され、再度、独立したお経とされたようであるが、いずれにしても、この「宝王如来性起品」は、如来が放つ光と雲と雨(特に雨は印象的に描かれている)と、普賢菩薩の説法という『華厳経』の世界観をぎゅっと小さくした印象であり、加えて、この品のみで完結しているのである。

ところで、この「宝王如来性起品」は大きく2つの部分から成り立っているのであるが、一つ目は如来がこの世にいらっしゃる、その因縁を説く部分であり、二つ目は、その如来に関して菩薩らが、どのように気付くのか(理解するのか)という部分である。

まず、如来がこの世にあらわれる因縁として、以下の十が挙げられている。

 1)無量の菩提心を発(おこ)して一切の衆生を捨てず
 2)無数劫(むすうこう)に諸々の善根を修した正直の深心(じんしん)
 3)無量の慈悲をもって衆生を救護(くご)
 4)無量の行を行(ぎょう)じて大願を退かず
 5)無量の功徳を積みて、心に厭足なし
 6)   無量の諸仏を恭敬(くぎょう)し、供養して衆生を強化
 7)無量の方便智慧を出生
 8)無量の諸の功徳蔵を成就
 9)無量の荘厳智慧を具足
 10)無量なる諸法の実義を分別して演説する

  ※ 『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,pp.474-475を基に
    当方にてまとめた。

これらが、因となり、縁となり、如来は世に現れたとされているのである。ここで、大切なのは、無量なる行を行じたのはもちろんであるが、如来が自らの意思のみで、世に現れたということではなく、”因縁”によって、世に現れたという点である。如来という存在であろうとも、あくまで、因縁の法の影響を免れることはないのである。

そうして、日や月の光や、雨、音声の喩えにて、仏の私たちに対する働きかけが示されるのであるが、肝心なのは、我々がそのことに気が付かないという点である。そのことを、普賢菩薩は次のように述べている。

 「如来は〔中略〕是(かく)の如きの言(ことば)を作(な)したまわ
 く、『奇なる哉(かな)、奇なる哉、云何(いか)んぞ如来の具足する智
 慧は、身中に在りて而(し)かも知見せざる、我当(まさ)に彼の衆生を
 教えて聖道(しょうどう)を覚悟せしめ、悉く永く妄想顛倒(もうぞうて 
 んどう)の垢縛を離れしめ、具(つぶ)さに如来の智慧その身内(しんな
 い)に在りて、仏と異なること無きを見(さと)らしめん』」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,p.521

普賢菩薩は、ここで、如来の法や智慧は、光や雨のように、私たちに、既にそそがれているのであるが、そのことに、私たちが気が付いていないと指摘しているのである。

メーテルリンクの、『青い鳥』ではないが、チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探しに行って、結局自分の家に、その鳥が既に居たことに気が付くように、我々もそのことに気が付ければ良いのだが・・・そのためには、まずはそのことに気が付く為、聖道(ここでは如来は八正道を挙げている)を行い、先ずは妄想や顛倒を改めないといけないのであるが、なかなか”気が付く”という所にまで行き着くまでも大変な道のりなのである。

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