『華厳経』睡魔・雑念 格闘中38
「宝王如来性起品」 ― 気付きということ ―
この、「宝王如来性起品」は、『華厳経』の中でも、かなり異質な印象を持っている。それは、普賢菩薩の以下のような発言に拠るのである。
まるで、映画の中で、その登場人物たちが、映画を見ているような構成になっており、『華厳経』の世界の中で、別のお経が説かれているような構成になっているのである。
木村清孝先生は、ご著書の『華厳経入門』で、そのことに触れ、以下のように述べていらっしゃる。
もともとが独立したお経として有ったものが、『華厳経』に取り込まれ、さらに今度は抜き出され、再度、独立したお経とされたようであるが、いずれにしても、この「宝王如来性起品」は、如来が放つ光と雲と雨(特に雨は印象的に描かれている)と、普賢菩薩の説法という『華厳経』の世界観をぎゅっと小さくした印象であり、加えて、この品のみで完結しているのである。
ところで、この「宝王如来性起品」は大きく2つの部分から成り立っているのであるが、一つ目は如来がこの世にいらっしゃる、その因縁を説く部分であり、二つ目は、その如来に関して菩薩らが、どのように気付くのか(理解するのか)という部分である。
まず、如来がこの世にあらわれる因縁として、以下の十が挙げられている。
1)無量の菩提心を発(おこ)して一切の衆生を捨てず
2)無数劫(むすうこう)に諸々の善根を修した正直の深心(じんしん)
3)無量の慈悲をもって衆生を救護(くご)
4)無量の行を行(ぎょう)じて大願を退かず
5)無量の功徳を積みて、心に厭足なし
6) 無量の諸仏を恭敬(くぎょう)し、供養して衆生を強化
7)無量の方便智慧を出生
8)無量の諸の功徳蔵を成就
9)無量の荘厳智慧を具足
10)無量なる諸法の実義を分別して演説する
※ 『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,pp.474-475を基に
当方にてまとめた。
これらが、因となり、縁となり、如来は世に現れたとされているのである。ここで、大切なのは、無量なる行を行じたのはもちろんであるが、如来が自らの意思のみで、世に現れたということではなく、”因縁”によって、世に現れたという点である。如来という存在であろうとも、あくまで、因縁の法の影響を免れることはないのである。
そうして、日や月の光や、雨、音声の喩えにて、仏の私たちに対する働きかけが示されるのであるが、肝心なのは、我々がそのことに気が付かないという点である。そのことを、普賢菩薩は次のように述べている。
普賢菩薩は、ここで、如来の法や智慧は、光や雨のように、私たちに、既にそそがれているのであるが、そのことに、私たちが気が付いていないと指摘しているのである。
メーテルリンクの、『青い鳥』ではないが、チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探しに行って、結局自分の家に、その鳥が既に居たことに気が付くように、我々もそのことに気が付ければ良いのだが・・・そのためには、まずはそのことに気が付く為、聖道(ここでは如来は八正道を挙げている)を行い、先ずは妄想や顛倒を改めないといけないのであるが、なかなか”気が付く”という所にまで行き着くまでも大変な道のりなのである。
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