『華厳経』睡魔・雑念 格闘中17
「明法品」 ― 普賢菩薩の所願 ―
『華厳経』を1巡目に読んだ際に、この品に於いて、唐突に「普賢菩薩の所願を具足せんことを願い」と法慧菩薩は精進慧菩薩に告げている場面があるのだが、この所願とは一体何であろうかと、気にはなったものの、そのまま読了してしまい、それが何であったのか、まったく分からずじまいで終わってしまった。
2巡目の今回は、少し本経(六十華厳)を離れ、別な資料にて確認したい。
1巡目に読んだ際には、普賢菩薩の願と思わるものを確認することは出来なかった。(居眠りして、読み飛ばした可能性は否定できないのではあるが。)そこで、他に伝わっている『華厳経』で、何か、ヒントになるようなものはないのかと、探してみることにした。
『華厳経』と呼ばれる、漢訳されたお経であるが、伝わっている巻数などにより、現在、三種類とされている。
1)六十華厳 仏陀跋陀羅訳(東晋訳・旧訳)
2)八十華厳 実叉難陀訳 (唐訳 ・新訳)
3)四十華厳 般若訳 (定元訳)
このうち、四十華厳(漢訳のお経名『大方広仏華厳経』)中に、「入不思議解脱境界普賢行願品」と名づけられた品がある。この品は、一般的に短く「普賢行願品」と呼ばれているようで、まさに私の答えが説かれていそうな品である。
四十華厳は、六十華厳が訳されている時代からは、相当な年月が経っており(六十華厳が訳されてから、四十華厳が訳されるまで、約300年から400年経っているとされる)、内容にかなり変遷があることが予想される。
しかしながら、『華厳経』に於いて、重要な役回りをされている、普賢菩薩に関して、追加されるような文言はあったにせよ、その内容が削られるということは、ないのではなかろうか。
残念ながら、現代語訳が見つからず、以下大正新脩大蔵経より、漢文部分を抜き出してみたい。
大意としては、以下のようであろう。
その時、普賢菩薩摩訶薩〔中略〕諸の菩薩および善財に告げて言う。
〔中略〕まさに十種の広大なる行願を修すべし。何らを十と為すや。
一つには諸仏を礼教す。 二つには、如来を称賛す。
三つには供養を広く修す。四つには、業障を懴悔す。
五つには功徳を随喜す。 六つには、転法輪を請う。
七つには、仏が世に住(とど)まるを請う。
八つには常に仏学に随う。 九つには恒に衆生に従う。
十には普く皆を回向す。
着目されるのは、第四番目の、”懴悔(さんげ)”である。
菩薩という語で、思い描くイメージや意味づけは、仏教学研究者、宗門の方々、一般の方々、それぞれ違っているであろうが、この”懴悔”の部分は、ひどく、我々の日々の姿に近いものを感じるのである。
もし、菩薩が理想的に、諸仏に近いのであれば、懴悔などすることはあるまい。ここでの菩薩は、釈尊が説かれたことや、これまでの祖師らが説かれたことを学びながらも、身・口(語)・意(心)のどれを取っても、業障(貪欲:貪り、瞋恚:怒り、痴:愚かさ)に阻まれ、なかなかそのようにはいっていない(私は特にそうである)ことを明確に述べているのである。
出来ていない状況を一旦引き取り、受け入れながら、それでも、釈尊や諸仏の教えを信じて進んでいく、そんな菩薩の姿が垣間見えるのである。
宗門により、日常唱える門徒のかたもいらっしゃれば、まったくご承知の無いもいらっしゃるであろうが、”懴悔文”と呼ばれるものがある。
その”懴悔文”も、この四十華厳の一部が基になっていると言われている。
最後に、その部分を抜き出し、「明法品」についての小編を終わることにしたい。〔宗門により、一部語句が違う唱え方もあるようである。〕
大意:我、昔より造りし所の諸の悪業は、皆、始まりの無い貪欲、
瞋恚、無知〔愚かさ〕に由来していて、身(体)・語(言葉)
意(心)から、よって生まれてくるものである。
その一切を、我は、今、皆(全てを)懴悔する。