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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中48

「入法界品」 ⑦ 釈天主童子、自在優婆夷、甘露頂長者
       ― 日日の菩薩行:無財の七施 ―


今回取り上げる、3名が説く菩薩の行は、専門的な仏道修行というよりも、日々私たちが暮らしているなかで、行えるようなものである。

では、善財童子の旅の続きを見て行こう。


善現比丘が、自身の菩薩行のことを説き終わると、より南の輸那国には、釈天主という童子がおり、そこに行って、別の菩薩の行について、聞いてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。

■ 釈天主しゃくてんしゅ童子 ― 全ての教えは菩薩行に違わず ―

善財童子が、輸那国につくと、釈天主童子は、河辺にいるという。善財童子が、言われた河辺に着くと、釈天主童子は、他の童子と供に砂遊びをしているのであった。

菩薩行について、善財童子が尋ねると、釈天主童子は、次のように答えるのである。

「善男子よ、文殊師利は、我に相黶子そうえんしの法・算数の法・印の法を教えたり。我、此の法門に因るが故に、一切の巧術智慧の法門を得たり。〔中略〕疾病・中毒・鬼の為にかれ、諸魔に持せられるも、悉く能く消伏す。」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕


『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,p.248


ここで、釈天主童子が伝える、”黶子の法”・”印の法”というのが、色々資料を確認したのだが、はっきりしなかった。”黶子”は黒子ほくろの事であるので、いわゆる、”ほくろ占い”のような、顔相を見て占うものの一種であろうか。

いずれにしても、ここで述べられている教えは、菩薩行や仏教そのものからは離れている。むしろ、現実の生活を生きる際に私たちが触れるような〔特に算数などは〕教えや技術なのである。その教えや技術が、”巧術智慧の法門”であると、釈天主童子は行っているのである。

それは、つまり、普段の周りにある教えや技術が、そのまま菩薩行に通じているということなのであろう。

すこし、飛躍するのだが、岡本かの子さん(岡本太郎さんのお母様)は、『仏教人生読本『の中で、日常と仏教の関りについて、以下のように記している。

 「現実として日常私たちが見聞きするものは、ただ表面に現れた仮りの
 姿で、実はその根源があって、しかもその根源は私たちの通俗な知識では
 ちょっと感付けないのです。それはちょうど、氷山のようなもので、海上
 に一部分頭を出しているが、その氷山の本体は海水中に隠れていて、しか
 も何十倍、何百倍も大きいのです。
  仏教は、この隠れていても、実は私たちの日常見聞きする現実のあらゆるものをあやつっている根本をも、一緒にくっつけて現実を見詰める
 〔後略〕」

岡本かの子,『仏教人生読本』,中央公論新社〔中公文庫〕,2007,pp.230-231

岡本かの子さんが指摘するように、日常が私たちの知り得ない隠された何かと繋がっているとすれば、そしてそれが、仏道へと伸びているのであれば、日々の生活の行いそのものが、菩薩の行となる可能性があると言えよう。


■ 自在優婆夷 ― 無財の七施 ―

釈天主童子が、自身のことを説き終わると、より南の海住という城には、自在優婆夷(在家の女性の仏教者)というものがおり、そこに行って、別の菩薩の行について、聞いてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。

海住城に着いて、自在優婆夷の下に行き、菩薩行について、善財童子が尋ねると、自在優婆夷は、次のように答えるのである。

「善男子よ、我無尽功徳蔵荘厳の法門を成就し、一器のじきを以て百の衆生に施し、其の所欲に随いて皆充満を得しめ、〔中略〕種々諸の物を、其の諸欲に随いて悉く充満せしめ、皆大いに歓喜せり。」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた。〕 


『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,pp.251-252

ここで、自在優婆夷が伝えている行は、食事や物を他の者に与えるところの」”施与”である。

だが、この自在優婆夷の発言の前に、善財童子が自在優婆夷の下を訪ねた際の、自在優婆夷の様子について、記述されている部分が気になる。

 「善財進み入りて、優婆夷を見たてまつるに、〔中略〕口常に天の妙な
 る音声を演出し、〔中略〕彼の諸のにょは身常に妙香織を出だし、
 普く大城に熏ず。若しぐ者有らば、皆菩提を退かざるの心・怒害
 無き心・怨敵無き心・慳嫉無き心〔中略〕貪愛無き心・瞋恚無き心〔中
 略〕・求欲無き心を得ん。彼の音声を聞かば、皆悉く歓喜し、心身柔軟と
 ならん。」  
  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,pp.250-251

この、自在優婆夷の様子で思い出されるのは、いわゆる”無財の七施”として伝わっているものである。宗派や宗門によって、順番や表現は違っているが概ね以下のようなものである。

  1. 捨身施・・・自身の身体を以て施す(現代ではボランティア活動が近い)

  2. 心慮施・・・いわゆる心配り

  3. 和顔施・・・微笑み・笑顔を以て対応する

  4. 慈眼施・・・優しいまなざし(目配りにも相当するのでは)

  5. 愛語施・・・優しい言葉を掛ける(挨拶も相当するのでは)

  6. 房舎ぼうしゃ施・・・寝る場所を提供(お遍路さんへの接待が近い)

  7. 床座しょうざ施・・・座る場所を提供(席を譲るに相当するのでは)

災害が多い日本では、常に様々な場所へボランティアとして参加するのは難しいであろう。しかし、いわゆる”目配り”・”心配り”などは、日々の生活に於いて行えるのではないかと思うのである。

とは言え、男性は特に、なぜか、”微笑み”が難しいような気がする。自戒を込めてでもあるが、少なくとも、他の人から何か優しい対応をされた時に、「有難う」の言葉とともに、少しの笑顔を返して行きたいと思う。


■ 甘露かんろ長者 ― いらぬ節介 ―

自在優婆夷が、自身の菩薩行のことを説き終わると、より南の大興という城には、甘露頂という長者がおり、そこに行って、別の菩薩の行について、聞いてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。

大興城に着いて、甘露長者の下に行き、菩薩行について、善財童子が尋ねると、甘露長者は、次のように答えるのであった。

 「善男子よ、当に知るべし、菩薩は悉く能く一切の衆生を救護くごす。善男子
 子よ、我此の如意功徳宝蔵の法門を成就して、其のもとむる所に随いて悉く
 の願を満ぜしむ。」

 〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第七巻,第一書房,2006,p.257

甘露長者においても、一種の施与が行として説かれているのであるが、先程の、自在優婆夷の”無尽功徳”(尽きることの無い功徳)に対して、甘露長者の場合は”如意功徳”(思うまま自在に与える功徳)という点の違いかもしれない。

気になる点としては、「もとむるところに従い」という所である。

相手に対して、与えるのは良いのであるが、やはり、こちら側の一方的な押し付けというものも、問題になる場合があろう。相手が必要と思うものを、必要に応じて施与するということも考えなければならない。

こちらが、良かれと思っても、相手にとっては”いらぬ節介”になってしまわぬよう、気をつけることも必要な場合もあるであろう。

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