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結城朝光さんと仲がよかったというのは、どのあたりの史料に詳しくのっていますか?
兄上と結城朝光どのの事は『吾妻鏡』だな。
正治元年(1199)10月27日条
まずは梶原景時殿追放事件の前哨。正治元年(1199)10月27日条。
讒言された結城朝光殿が兄上に相談した理由がこう書いてある。
前右兵衛尉義村、 朝光とは断金の朋友なり。
断金(だんきん)の朋友とは、金属をも断つ固い友情で結ばれているという意味だ。
宝治元年(1147)6月29日条
宝治合戦の後、結城朝光殿が「自分が鎌倉にいれば絶対に三浦をほろぼさせなかった」と泣いた話が載っている。
その時の結城殿の紹介文がこちら。
駿河前司義村、若狹前司泰村 二代の知音なり。
知音(ちいん)とは、「心を良く知る仲」という意味。中国の誇示で、琴の名手が親友が亡くなった時に、「私の琴の音を真に理解していたのは彼だけでした」と嘆き、琴の弦を切ったことから。断琴(だんきん)の交わりとも。
他にも承久の乱の時に行動を共にしたり、なんだりしているので、まぁ公私共に仲が良かったんだろうなぁ。
とまぁこんな感じかのう? 他にも質問があれば、随時受け付けてるぞ~