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質問回答

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マシュマロに投げ込まれた質問回答集。 ↓質問はこちらから↓ https://marshmallow-qa.com/bot_miura9
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今度、母と横須賀の方にでかけるのですが、「ここは行っておくべき!!」という三浦氏ゆかりの場所ってありますか?

とりあえず車で行くか、公共交通機関でいくか、誰のファンなのかによるが、 衣笠エリアが間違いないな。衣笠城址・満昌寺(宝物殿は予約見学可)・父上の墓・祭神が兄上の近殿神社。 義盛ファンなら東海岸の浄楽寺(予約して見学すべし)は外せない。 崎に行ってマグロも良いが、今の季節なら松輪サバも美味いぞ!(松輪サバ食べられるかは運) 三崎に行ったら海南神社に行くと良い。食事はくろば亭おすすめ。おやつにミサキドーナツも美味いぞ。 ちなみに、兄上の墓近くにあるレストランKANEDAは

海路で軍を動かす場合、馬はどうするのでしょうか。

石橋山の記事は、これかの? 平安末~鎌倉時代の軍船については、文献も残ってないから、曖昧な記憶だが……。 大きな船なら馬も乗せられるだろうが、取引のある港ごとに馬を用意しておくという手もあるなぁ。 安房や伊東は三浦と繋がりがあるが、石橋山だと伊東は敵方になってしまったから、土肥あたりから上陸する予定だったのかもなぁ。 あ! あと単純に、馬は船に乗せるのではなく泳がすってパターンもあるな! 結構スイスイ泳ぐぞ!! ちなみに三浦には、夏に馬に乗って海を泳ぐ人気イベントが

胤義さんやご兄弟の矢の腕前は実際どのぐらいだったんでしょうか

兄弟で弓の記述があるのはオレと兄上ぐらいだが……兄上は流鏑馬や笠懸をした記録が何回か『吾妻鏡』にあるな。オレは『承久記』に出て来る。 まず流鏑馬(やぶさめ)というのは、神事。神様に奉納する儀式だから射手には「絶対に外さない者」が選ばれる。 笠懸(かさがけ)は競技。射手には「プロ中のプロ」が選ばれるのだ。 ちなみに、当時流鏑馬には年齢制限があった。40歳以上で選ばれることはほとんどないよ。 オレは『慈光寺本承久記』では京で一二を争う弓馬の上手と称されているし、 放っ

武士が名乗りを上げるシーンで「生年十七歳」と言っているのが何度も出てきました。年齢は申告(?)しなければいけないルールだったのでしょうか?

武士の名乗り、年齢を名乗る場合と名乗らない場合はぶっちゃけノリかのう……。初陣じゃなくても年齢入れる場合もある。 ちなみにな、義茂の「生年17」、実は「おいおい」なんだ。 義盛・義茂の父である杉本義宗が亡くなったのは1164年の1月。 当時の年齢は数え年なだから、衣笠城合戦の時(1180年)生年17だとちょうど満年齢は16歳で、1164年生まれになってしまう。 ん? ならギリギリ生まれてる可能性があるって? 実はな、義茂の下に弟だけでも5人ぐらいいるんだ。 だから義

三浦惣領の三浦義澄様の指示に皆が従わず鎌倉殿から従うようにとのお言葉があったといった記述を発見いたしました

おお、岡崎のじっちゃんと、頼朝様の「義澄の言う事聞きなさい」宣言な! 良いところに目をつけたな! まず、岡崎のじっちゃんが頼朝様の暗殺を企んだのは「ドラマの創作」なんだ。 そしてオレが思うところ、史実の岡崎のじっちゃんが、頼朝様へ逆心を持つ事は「有り得ない」と断言させてもらう。 というのを前提にすると、なんでドラマのじっちゃんが謀反を企てたのかはまぁ「ストーリーの都合」だな。 そして『吾妻鏡』の「義澄の言う事を聞かない三浦党」の記事、 歴史研究者の間では和田義盛や、

藤原秀康殿が和田氏の血をひいているのは本当なんですか?

藤原殿が和田の血筋ってのは、たしか平岡豊殿の論文、「藤原秀康について」か、 大和典子殿の「承久の乱における京方武将藤原秀康とその周辺」に書かれてる。 関幸彦殿の「承久の乱と後鳥羽院」もチェックしてくれ ちなみに本人は 「坂東武者の血が流れてても、京生まれ京都育ちの京武者ですし。弟と一緒に盗賊を捕縛した時は、「血がたぎる」というものを経験したつもりでしたが……ダメでしたね。 やはり血ではなく実践的訓練が大事ですよね。血筋は頼るのではなく、利用するものですね!」 だ

義村様以外のお兄様方のことも知りたいです。教えて下さい。

じゃぁ、有綱兄と、重澄兄の事を語ろうか。 まずは有綱兄は、山口次郎。今の葉山の山口にいた。御家人ではあるんだが、本職は伊豆半島との貿易業。建久6年の頼朝様上洛に従っている。 記録にはあんま残ってないけれど、数少ない記録で「公家ウケがすこぶる悪い」って残っててさ…吾妻鑑の建仁2年(1202)10月29日条。御所で蹴鞠しようとして、京の蹴鞠名人を呼んで、準備したんだけど……なんでか兄貴にだけ難癖つけてきたらしくって……めっちゃキレてた。 重澄兄は、大河戸重澄。何男なのかはわ

今のお酒と鎌倉時代のお酒、どう違うの?どっちが好きですか?

鎌倉時代の酒は……製造方法というか原理? は同じようなものなんだがな、発酵期間が短くて、味がちと薄くてなぁ……。 熟成して血のように赤い程高級品だった。 純粋に味を比べたら、現代に軍配が上がるだろうなぁw

三浦さんちが安達さんちにあそこまで恨まれたのは、誰がなにをした所為なのでしょうか?心当たりはありますか?

兄上が何かしたんじゃねーのー?(ハナホジ まぁ真面目に言えば、安達は執権の外戚で、三浦はそうじゃない。 そうじゃないのにNo2ポジにいる。 脅威に思ったんじゃねーかな

三浦一族はどの時点で誰がどうすれば滅ぼされずにすんだと思いますか?

「安達景盛殿が高野山から降りてこなかったら」かなぁ。

この時代でつきたい職業、したい趣味とスポーツ、行きたい場所はどこですかー?

この時代に生まれていたら、なんだかんだ言って、結局自衛官か警察官になって、趣味でも武術やってる気はするよ。 行けるなら、国内外に限らずどこにでも行きたいのう。

三浦家の通り字は「義」だと思っていたのですが三浦義村の子から突然「村」になってますよね?通り字が変わることって、よくあることだったのでしょうか?

通字は付き合いの濃い家が変われば変わるから、よくあると言えば、よくある……。 例えば足利氏も源氏三代が終わった後は、義氏殿の「氏」の字が通字になったし……。 ただ、なぜ兄上の子から「村」が通字になったのかはわからない。むしろ兄上の「村」はどこから来たのかもわからない。 ちなみに義の通字はオレの子が引き継いでいるよ~。 とまぁこんな感じかのう? 他にも質問があれば、随時受け付けてるぞ~

鎌倉北条氏に滅ぼされたのに、復活できたのはどのあたりがキッカケなのでしょうか

ふむ、まず宝治合戦で全滅……というわけではなく、一部北条の味方をして生き残った分家がいた。 それが、兄上の娘・矢部禅尼と佐原盛連の子たちだ。佐原盛時が宝治合戦後に三浦介を名乗っていた。……といっても、戦力はかなり削られてしまってのう……。北条からは「三浦は三浦半島から出てくんな」と言われていたらしい……。 で、鎌倉滅亡時に足利尊氏に味方して、戦力が復活。戦国時代へ続くというわけだ。 とまぁこんな感じかのう? 他にも質問があれば、随時受け付けてるぞ~

結城朝光さんと仲がよかったというのは、どのあたりの史料に詳しくのっていますか?

兄上と結城朝光どのの事は『吾妻鏡』だな。 正治元年(1199)10月27日条まずは梶原景時殿追放事件の前哨。正治元年(1199)10月27日条。 讒言された結城朝光殿が兄上に相談した理由がこう書いてある。 断金(だんきん)の朋友とは、金属をも断つ固い友情で結ばれているという意味だ。 宝治元年(1147)6月29日条宝治合戦の後、結城朝光殿が「自分が鎌倉にいれば絶対に三浦をほろぼさせなかった」と泣いた話が載っている。 その時の結城殿の紹介文がこちら。 知音(ちいん)