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英雄的ってどいうことなんだろうね
英雄的な死というものがないと言ったのは三島由紀夫であったか。
先々週くらいに鬼滅の刃の劇場版がいくらか議論が沸騰した模様である。
本当にそうで、これを自覚できている人が多かったらこんなに社会現象にならないと思うんですよ。
— 島本 (@pannacottaso_v2) September 28, 2021
だって、大人は鬼殺隊に殺される鬼か、良くてお館様にしかなれないんですからね。
あの作品は市井の人というものを徹底的に描かないことで成り立っていますね。
描くとアマプラのザ・ボーイズになる。 https://t.co/DyiZ8STS51
英雄をやる側の人間が作る英雄像は決して煉獄さんにはならないんですよね。例えるなら「ダークナイト」のバッドマンやトゥーフェイスのような形になる。英雄になることの苦難と二面性を知っているから。
— 小山晃弘(狂) (@akihiro_koyama) September 29, 2021
同作品は原作が少年ジャンプであり、アニメも年少者を対象としているため、英雄とか死についての掘り下げが浅いようだ。まあ当たり前だけど。
上の2つのツイートにあるように、英雄の立場から描くなら『ザ・ボーイズ』や『ダークナイト』になるというのもまあそうだろうなと思う。最近のマーブルもそういう傾向があるが、それを突き詰めたのが『ザ・ボーイズ』であった。
そして鬼滅の刃の煉獄さんみたいなのがもてはやされることに危険なものを感じずにはいられない。自分は死にたくないが、誰かには犠牲になってもらいたいという心根が現れているように思えるからだ。
そういう他人事感に我慢のならない者は『ザ・ボーイズ』のような作品に向かうことになるだろう。
もちろん現実の現代社会にはスーパーヒーローもいなければ鬼もいない。三島の言うように、英雄的な死はないし、大義のために死ぬということにリアリティはない。
さらに鬼滅の刃の舞台となった時代と違って、現代は快適すぎる。私も素敵なガジェットや文房具に囲まれて日々楽しく過ごしている。
この快適さはなるべく長く生きていたいという心情につながるだろう。そして死に値するような大義も物語もないとなれば、現世が全てとなり、現世に執着することが大正義となってしまう。
子を残して死を得るという物語にリアリティがなくなれば、快適な現世の邪魔になりかねない子供はいらないということにもなる。反出生主義は現世の辛さから出てくるものと通常は考えられているが、快適さとかお命至上主義からも生じるのである。
しかし現世にしがみついて、死ぬまで働き続けようというわけではあるまい。老いを得たら働かなくなるだろう。人間が生存していくためには、生産をする人間が必要である。特に要介護老人は、映画マトリックスの現実界の人間たちのように機械につながれているのでなければ、ものすごいマンパワーを必要とする。
ここでお命至上主義と反出生主義は大きく矛盾することになる。
多数のために少数が死ぬことが許容されるのは、この小説や「鬼滅の刃」のように、残ったものが立派に共同体を担っていける場合である。しかし、助けられる側が共同体を担えない者ばかりでも、それは助けるべきと言えるのか。
約2ヶ月前にも似たようなことを考えていた。しかし煉獄さんになるのではなく、煉獄さんになってもらいたがる人間がかように多いとはこのときは思わなかった。
「なぜ煉獄さんを見習う大人がいないのか」と嘆いてみせながら、「ではおまえがやれ」と言われると、「なんで私が」と被害者みたいな顔をするわけです。
— ニー仏 (@neetbuddhist) September 29, 2021
鬼滅の刃は英雄の立場から描かれた作品ではないから、「なんで私が」になってしまう。無責任な人々に向けて作られた作品なのである。
まあ子供たちが楽しくみるぶんにはとてもいいと思うけどね。ちなみに私はまだ観ていない。
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