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『Why I Am Not a Buddhist』読書録会7回目

週末はいろいろ作業とか勉強とか野球観戦とかしたのであった。

土曜日の朝は仏教のアレさんの読書会、楽しかった。

今回はそもそも悟りとはなにかというお話。そして引き続き。仏教モダニストの矛盾点について。以下は自分なりのまとめです。

仏教における悟りとか解脱とか涅槃とか呼ばれるものが、仏教モダニズムにおいて近代西洋の啓蒙と結びつく。

プロテスタントの宗教改革からの類推、エマニュエル・カントの自らの悟性で考えよという哲学からの連想で、仏教とは自分で考えるものだという仏教例外主義につながっていく。

たしかにブッダ自身は形骸化したヴェーダの儀礼を拒絶し自身の悟性により真理を発見した。しかし仏教の伝統の中では、ブッダは超越的な存在でもある。

そして仏教者はしばしば伝統的権威をいったんは受け入れている。

ブッダが悟ったという事実を受け入れて、覚醒への期待、自信、信頼をもって瞑想などするわけで、それは宗教的、超越的ではないのか。

しかしこれはなんらかの指導が行われる場面では常に問題になる。指導者のいうことを聞いていればできるようになるという確証はなくても、指導を受け入れるではないか。
私はこのようにしたらうまくいったと言うことはできても再現性は担保されていないことがしばしばである。再現性がなければ科学的とはいえない。

解脱や涅槃の内実について仏教徒の間でコンセンサスがとれていない。あまり科学的とはいえない。そもそもブッダ没後わずか100年で根本分裂が、部派仏教の乱立があったではないか。ブッダは教えを書くことをしなかったから、「音楽性の違い」によって様々な宗派に分かれることは自然なことであった。。しかしそれは多様性、柔軟性を担保し、仏教が各地で生き延びることを可能にした。

もちろん仏教の中には四聖諦や五蘊のように広く共有されている智もある。だがその理屈がわかったらあとは実践するしかない。ある種の暗闇の跳躍といえよう。

というように仏教が近代科学と相性が良い側面が多々あるということは認めるにしても、宗教ではないとか超越的でないというのはかなり無理がある。そして私は科学と相性が良い部分も、超越的なところも両方おもしろいなあと超越論的()なことに想いをいたすのであった。


といようなことをウニャウニャ考えていたら週末はほとんど終わってしまっていた。

日曜の夜は青識亜論氏が登場したツイキャスをちょっと聞いていた。

青さんは普段のTweetやnoteは非常に理智的で抑えた筆致を身上としているようであるが、やっぱり鬱憤がたまるんだなあと思ったのであった。めちゃおもろかったけど。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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