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ヘンリー・マーシュ『医師が死を語るとき』読んだ

みすず書房はなにげに医療関係も強い。これもそんな一冊である。

引退間際のイギリス人脳神経外科医が老境を語るというもので、非常に深く突き刺さる内容であった。

全体としては、自分のしてきたことに疑問を感じるようになってしまい、それを正直に吐露しているという内容だ。

脳外科の手術は、なんとか助けることができても重大な障害を抱えたまま生きることになる症例がしばしばある。そしてその苦しみを背負うのはたいてい家族である。罪悪感とともに施設に預けるという選択肢もある。

それは手術をした者にとっては、「死なせてあげたほうがよかったのではないか」という疑問に直結する。もちろんその疑問に気づかないふりをすることは可能であるが、著者はもう無視することに耐えられないのである。

また脳外科は事故であったり、脳腫瘍であったり、患者が若いことがしばしばある。そうした場合に、障害を残すだけで予後延長には寄与しない手術を余儀なくされることもしばしばあると思われる。

ネパールで遭遇した小児の脳腫瘍の手術についてこんなことが書いてある。

私の中の理性的な部分はこの子の手術は時間と金の無駄だと思っている。だとしても、世界中のどこにいたって、必死になっている親にこんなことを言うのは不可能だ。

こういう心理と訴訟の脅威で、医療費がうなぎのぼりになっているのは日本だけではないらしい。

こうした事情から医師が患者の最期にあたって、尊厳ある死からかけ離れていくような措置を施してしまいがちであることに触れつつ、安楽死の合法化を求めている。これは著者が本書全体で語っていること整合的であると思う。

また著者は過去の手痛い失敗にも何度か言及している箇所は共感できるものだった。

手術とは危険な営みであり、失敗する場合もある。この事実に対処するには、もちろん自信が必要だ。怯えている患者に対して、自信をアピールする必要だってある。けれども心の底では、自分は自分で思うほど優秀ではないかもしれないということを、私たちのほとんどは知っている。(中略)フランの外科医ルネ・レリシュがかつて述べたとおり、私たちみなの中に共同墓地が存在するからでもある。その共同墓地は私たちの手で傷を負ってしまった患者の墓石で埋め尽くされている。私たちはみな罪深い秘密を抱えている。自己欺瞞とおおげさな自信とで、その秘密を隠しているのだ。

こういうことが低い声で語られるから信用できると感じる。逆に、自分は失敗しないからと言うような外科医はいちばん信用ならない(現実にそんなこと言う人は見たことないが)。

著者が情熱を失いつつあるのは加齢の影響もあろうが、イギリスの国民医療サービス(NHS)がかつてとは変貌してしまったこともあるようだ。官僚的制度と医療の現実を支配されて、変わり果ててしまったことを嘆く場面が何度も出てくる。マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』で「市場型スターリニズム」と罵倒した姿を垣間見ることができる。


というようなことが美しい文章で綴られている良書である。

ただ、自分自身が医療の価値とか効用に対して疑問を強めつつあるいま読むべきものではなかったのかもしれない。その疑問は本書を読むことでさらに強化されてしまったように思う。


翻訳は、全体としては非常に美しく読みやすい。原書の良さを忠実に再現したものと想像する。

なので、もとの英語はどんなものか気になる。美しい英語の表現を学びたいので原書も購入するつもりだ。

しかし、手術室の中でおこることについては、訳語の選定が不適切と感じるところがいくつかあった。訳者あとがきによると精神科医の友人に見てもらってはいるようだが。例えば、胃潰瘍の手術において迷走神経は分割するものではないと思われる。divideをそのまま訳してしまったのだろう。

Amazonのレビューを見てみると、こういうことを気にしている人はほとんどいないようだ。全体からみれば些細な問題なのは間違いない。私が、いま翻訳に携わっていることもあって、神経質になっているだけなのだろう。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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