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山内志朗先生の論考収載のゲンロン15読み始めた。セカイ系とスコラ哲学と。

ブラックフライデイ本格的に始まりましたね。ガジェットの類いは今回はさほど欲しいものはなくて、生活用品を中心に買い漁っている感じだ。

Youtuberみたら山ほどオススメ商品あるけど、もう日用品にしか目がいかない。

あ、これはオススメです。

とりあえず、先週末に日当直くらったせいで、今週は一日祝日を挟んだにもかかわらず大変疲れてしまって、なかなか買い物に集中できないというのもある。

それに先週末はプレミアリーグがなかったこともエネルギー枯渇の一因となった。今日はこのあとマンチェスターシティとリバプールの試合があるので楽しみだ。


さてゲンロン15を読み始めた。まだ14を読み終わっていないのに。

というのも、山内志朗先生の論考が収録されているからだ。

以前から先生が提唱されているセカイ系はスコラ哲学理論のお話だった。相変わらずよくわからなかったが、今回の趣旨はラテン語を勉強しましょうということらしい。

私はセカイ系のことはよく知らないが、ありふれた少年が美少女になんでか選ばれて恋愛関係のようなものになって、その関係性がなぜかどういうわけか世界の危機に直結しているような物語、、というふうに理解している。

そしてしばしば少年は世界を危機から救う戦いからは疎外されていて、危機に立ち向かうのは美少女のほうなのである。したがってその関係性は非対称であり、とても壊れやすくて、儚くて、切ない。

それとスコラ学がどう関係あるのか今までよくわからなかったが、今回すこし理解できた。

どこにでもいるような少年がそのまま世界に埋没せずに、メサイア的美少女に選ばれることで救われるのだが、これは聖霊に媒介されることで神と直結できるという神学的ファンタジーと似たようなものなのである。中世の人々にとってこのファンタジーは重要だったようだ。

近代において唯一性の獲得がミッションとなった。私という存在はかけがいのないものということになり、ぱっとしない人生で終わってはならなくなったのだ。だから唯一者たる美少女に選ばれることで唯一性を獲得できて、救われるのだ。

個人の唯一性を昆虫一匹の唯一性と同じに捉える枠組みに立とうとするのでないならば、未来や世界という彼岸にあるものと契合する図式を抱えうる概念を求めるしかないと思う。それを〈セカイ系〉という理念型に置くことはあってもよいだろうし、それを動かすツールの一つの候補としてラテン語があるというのが私の考えなのである。

虫を一匹見つけてそれを個体とか個物であると言い張ることは可能である。だが、かけがえのないわたし、というときの個ってそういう意味じゃないよね。唯一性は虫的な意味での個体とは違うから、血縁とか恋愛関係(生殖)のような時空を超越しうるものに求めるほかないよね、ってなるだろう。

というとこらへんはわかったが、スコラ学との関係はいまいちわからなかった。唯一性の獲得、すなわち個人という概念が起動するのはまさにトマス・アクィナスとかスコトゥスとかオッカムの時代であった、ということは語られている。

これは私の関心と少し重なっているようにも思われる。まだ人々が超越的なものを信じていた時代、あるいはわずかながら超越的なものを疑い始めた時代、どのような思考の枠組みを持っていたかである。いうまでもなくこれは個人の誕生とも関連している。

ただ今回の論考では、唐突にカントの統制的理念が登場したり、カントもラテン語で考えていたんだからラテン語にはご利益があるとか、まとまりに欠けている印象もないではない。

ただしラテン語を勉強するご利益は私も感じつつあり、ラテン語を腰を入れて学ぶきっかけとなったのは山内先生なのであった。


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