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三浦綾子『塩狩峠』読んだ

この記事の末尾で触れたエピソードにつき、友人より示唆あり、この小説を読んだのである。

1909年2月名寄駅初旭川行き列車が塩狩峠付近で最後尾の列車の連結不備のより逆走し暴走寸前となったところを、長野正雄なる人物が下敷きとなることで停止せしめたという事件があった。

この三浦綾子氏による小説は、自身と同様にキリスト者であった長野正雄氏をモデルにしたものである。長野氏は今でいうところの「ぐう聖」だったらしい。

長野氏が誤って転落したのか、覚悟の上で飛び込んだのか今や不明であるが、小説では後者ということになっている。

筋書きとしては主人公の永野信夫を幼少期から事故に至るまでを念入りに描いており、なかなかおもしろい。いかにしてキリスト者なっていくか、親友の妹ふじ子への懸想というわかりやすい軸があるのですいすい読めた。

最後、ふじ子のカリエスが快方へ向かったのを契機として、主人公は結納のために旭川から札幌へ向かったが、ここで上述の事故となるのである。私には、ラストに至る道のりがかなり単線的に、しかし説得的に、描かれているように思われた。つまり、主人公が身を投げ出して列車を止めるということが極めて自然なことと感じられた。

しかしその行動を手放しで称賛する気持ちにはなれなかった。

列車を止めなければ脱線転覆により多くの人が亡くなっていただろう。これはトロッコ問題ではない。なぜなら多くを助けるために亡くなる一人と、レバーを引く人間が同じだからである。

一人に重大な決断を迫って多くを助けるのは必ずしも良いこととは思えない。それは助けてはいけない命だったのかもしれない。

では犠牲になるのが共同体全部であるならどうか。共同体を救うために幾人かが犠牲になることはぎりぎり正当化されうるのではないだろうか。それは助けてよい命、助けるべき命といえるだろう。

しかし、小山(狂)さんも指摘するように、その犠牲を尊びつつ自分はその役割は拒否するという心性には、私はどうしても嫌悪感がある。そういう心性はもちろん私の中にもあって、それも永野信夫の行動をどうしても賛美できない理由の一つである。

明確に助けてしかるべき情況はたしかにある。簡単に思いつくのは、少数の命を助けるために、大多数が広く薄く負担するような場合だろう。命までとられることはもちろんなくて、皆が稼ぎや労働のうちのごく一部分を提供するだけで何人かが助かるならば歓迎すべきだ。

ではこの情況が少し変わって、助けられる人が増えて、助ける側が減っていくとどうなるか。はじめのうちはたいした負担ではないが、どこかで耐え難いものとなるだろう。もちろん行くつくところはこの小説のように、多数のために一人が死ぬという情況だ。

多数のために少数が死ぬことが許容されるのは、この小説や「鬼滅の刃」のように、残ったものが立派に共同体を担っていける場合である。しかし、助けられる側が共同体を担えない者ばかりでも、それは助けるべきと言えるのか。

かように心臓が動いていることの限界効用がほぼ無限である限界社会では、自己犠牲はどうあるべきかというのは非常にややこしいといわざるをえないなあと思うのであった。そしていつか塩狩峠もいってみたいと思うのであった。


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