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アルコールと丁寧な暮らし

丁寧な暮らしについてもう少し続けて書いてみよう。

私はアルコール依存症と診断されたことがある。まあアルコール依存症の診断基準が厳しすぎて通常の酒飲みなら誰でもアルコール依存症と診断されてしまうというのはある。

私はまあまあガチなほうで、Alchohol Anonymousの集会に参加していたこともある。あのての会に参加すると上には上がいるなあと思うが、それで安心してはいけないとも思う。とりあえずレグテクトはあんま効かないです。

最近はわけあって、というか丁寧な暮らしをしたいこともあってアルコールはかなり控えている。

基本的にいいことばかりだ。とにかくお金がかからない、勉強が捗るなどなど。たぶん健康にもいいんだろう。

メリットに比べればたいしたことではないが、デメリットもある。いつも頭が冴えているのは良いことなのだが、常になにか有意義なこと生産的なことをしていなくてはいけないような気分になる。こういう強迫症的な性格はアルコール依存症と相関しているのかもしれない。

なにか有意義なことをしていないと落ち着かないというのは勉強や読書が習慣になっている人にはありがちなことだろう。なにか習慣にするとはそういうことである。極端な人になると、わずかでも生産的でない一日をすごしてしまうと自己嫌悪になったりするらしい。幸か不幸か私はそこまでではない。

私は一日の終りにこういう思考回路を断ち切るためにアルコールを摂取していた。電源を切るイメージである。いまはほぼ飲まないので、意図して電源を切ることができない。なので電池切れになって眠りに落ちるまで勉強したり読書するはめになる。

四六時中頭が冴えていることのデメリットは他にもある。自分にも他人にも厳しくなってしまうのである。酒飲みなので自分もだらしないとこあるしなあって感じで他人には甘かったのだが、今はそうではない。さりとて職場では有能な人材に囲まれているので特に厳しく叱責したりすることはない。

ウ・ジョーティカ師の『ゆるす』に、「自分が努力しているときに他人に寛容になるのは難しい」と書いてあった。本当にそのとおりだと思う。

許すといえば、先日の白饅頭師匠の記事が面白かった。

他人を許すのは自分の心を平穏に保つためという趣旨だった。そりゃそうだねと思った。頭が冴えているとこういう言葉も素直に入ってくるのだ。

お酒がないと無駄のない生活がおくれるのはメリットであるが、無駄のない生活が豊かな生活とは限らないのはデメリットといえなくもない。

例えば、かつては仕事が少なくて早く帰れるときは、有休を取って太陽の出ている間からビールクズすることがあった。みんなが仕事をしているときにビールを飲むのはわずかながら背徳的な快感がある。だが今はそれもないので有休を取ろうと思わない。働き方改革とはなんだったのか。

晩飯にアルコールが付随しないので美食への関心が激減した。こじゃれた料理屋で晩飯となると、往復の移動時間やらコースの時間などで3から4時間ほど消費することになる。こういう時間の無駄遣いは贅沢なことではあるが、アルコールで頭を痺れさせていないと難しい。アルコールが入っていないと有意義なことをしないと落ち着かなくなるという症状の一亜型といえよう。

もちろん会食そのものは相手次第で大変有意義なものとなる。そこにアルコールの有無はさほど関係ないとわかったのは大きな収穫だった。

頭を痺れさせるといえば、日々忙しく働くお父さんたちには日常的なものかもしれない。帰る元気もなくなるほど働いたあと、ストロングゼロを流し込んで気合を入れて帰宅するという人はけっこう多いのではないかと想像する。私も東京で消耗していたころはそんなことをしていた。

しかしそれは気合が入っているのではなく、たんに脳が麻痺して疲労感を感じなくなっているだけである。あまり身体に良いとはいえない。
さりとて今日この日を乗り切ることが長期的な健康より大事という局面はお父さんたちにはたくさんある。哀しいことだが現実である。

以上、アルコールを控えることの副作用をつらつら書いてきた。繰り返しになるが、これらのデメリットはメリットに比べると些細なことである。禁酒に挑もうとする人々にとって、実際に始めてみるとこういうデメリットがあると知っていると対処しやすいのではないかと思って書いてみたのだ。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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