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リスクもベネフィットも結局は主観的な問題である

ではこないだのこの話題の続きです。

このところモデルナ社のSARS-COV-2ワクチンが、特に若年男性に心筋炎を起こす傾向があると話題になっている。

その頻度の数字については、心筋炎についての知識を国家試験以来アップデートしていないので判断できない。ワクチンを打たなくても様々なウイルス性心筋炎は低頻度ながらおこるし、ワクチンを打たずにコロナウイルスに感染すれば心筋炎はおこりうるなどということを考慮すると、私のような門外漢にはどう判断してよいかよくわからないのである。

そもそもワクチンに限らず、薬の安全性とは副反応やら有害事象の頻度や重症度だけではなく、投与しない場合の危険とあわせて判断すべきものである。そしてその判断は主観的なものにならざるをえない

リスクとベネフィットを天秤にかけるなると、COVID-19に関しては若年男性、ことに基礎疾患を有さない場合は、ワクチンを接種しなくても死亡や重症化リスクは極めて低いのであるから、ワクチンに求められる安全性は相当高いものになる。怖い想いをしてまでワクチンを接種しなくても、たいしたことはおこらないからである。

例えば、19世紀に天然痘のワクチンを接種しないとか、現代であればHPVワクチンを打たないというのは、私はかなり無謀であると思うが、新型コロナウイルスに関してはそんなことはなかろう。感染した場合のリスクに応じて個々人が判断すればいいことだ。

もちろん19世紀には、ワクチンを接種しない自由を奪われるよりも、天然痘で死ぬほうがマシと主観的に判断する人々はたくさんいた、特に英米にだ。そしてその英米こそが今回のパンデミックでいち早く効果的なワクチンを開発したことを忘れてはならない。


というようなことを今更なぜ考えるかというと、3回目の接種めんどいなあと思っているからだ。諸外国の感染者数の増減から、ワクチンの効果は長期的には減衰することはたしからしく思われる。本邦でも3度目の接種が検討されるのはある意味しかたないことだろう。ファイザーに朝貢しつづけるのもいたしかたあるまい。こういうときのために外貨準備を溜め込んでいるのだと思うことにしよう。

しかたないとはいうものの、私は生来健康なので別にワクチンなどいらないし、もしうっかり感染してどうかなったとしてもそれは運命というものだ。

それでも今年の3月ころに1度目と2度目の接種をしたのは、自分が重症化する可能性はゼロに近いとしても、他人に感染させると、私の仕事では大惨事になる(と想定されている)からである。

その大惨事には、私が失職する可能性も含まれている。死ぬことは運命として受け入れるとしても、しんではいないが失業している状態(あるいはそれを想像すること)は大変つらい。まあそんなときはフォークリフトからやり直せばいいのだろうが。

というような主観的判断に基づき、職場から求められれば3回目接種には応じるつもりである。

さりとて、「コロナで死ぬのはだいたい高齢者であり、いちいち大惨事にするのがおかしい」という論者からすれば、私はリスクを過大に見積もり過ぎていることになるであろう。しかしリスクとは個人の主観だけではなく、共同主観的にも決定されるものである。感染症とは世界観であると言い切った西迫大介氏の慧眼には舌を巻くほかない。


しかしこういうことをウジウジ考えている私は、反反ワクチン主義者からしたら陰謀論者と五十歩百歩なのかもしれない。

論理とエビデンスに基づいて考える人間を相手にするよりも、ちょっとあれな人々をボコるほうが容易に気持ち良くなれるだろうし、それは人間の性としてしょうがないことだとは思う。知的営為としては誠実さを欠くとしても。

でもいっしょにしてほしくはないかなあとちょっと思うのであった。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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