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アスリートと究極のアンチエイジング

昨日の話の続き。

個人的な死生観がなんであれ、肉体が老いていき、やがては死に至るというプロセスは避けられない。

だから老いにどう対処するかというのは、夭折しない限りは万人につきまとう問題である。

というようなことを考えているとこんな記事にいきあたったのである。

筆者はイチロー選手の引退会見でイチロー選手の目に怒りを見出したという。

彼はあきらかに憤っていた。自分にろくな出場機会を与えなくなったマリナーズの指導陣にではなく、自分が頭の中で練り上げたバッティングの技術や理論、それがただしいのか間違っているのかも検証不可能なほど、すっかり衰えてしまった己の肉体に対して。

他にも志村けんをはじめ偉大なアスリートやエンターテイナーを引き合いにだして、彼らが自らの技術や芸を年齢とともに肉体が実現できなくなることに憤り、あるいは儚さを感じたのではなかろうかと論じている。

たしかにそういうことはあるかもしれない。

しかし私はそのように感じることはない。

究極のアンチエイジングは代替わりすることだ。つまり子孫を残すことである。子孫が残れば、GeneやMemeはいつまでも肉体を乗り換えつつ拡散していくことができる。

そのことに気がついてからは、いかに知識や思考や資産を積み重ねたところで死んで霧散してしまうならなんと虚しいことだろうか、などと考えることはなくなった。

とはいえイチロー選手ほどの境地には、たとえ出産直後から英才教育をイチロー選手の遺伝子を受け継ぐ者に施したとて、そうそう到達できるものではなかろう。

あるいはイチロー選手ほど影響力があるなら、自らが体得したものを拡散することはさほど困難ではあるまい。

だから子孫を残す意義はそんなには大きくないのかもしれない。

となると究極のアンチエイジングとしての子作りは、凡庸な者にほど効用が大きいといえるだろう。誰もがイチローや志村けんになれるわけではないからね。

このような観点からすれば延命を重視するあまり、出生を軽視するのはひたすら老いていくだけということになる。それではあまりに虚しくないだろうか。

しかし出生をサポートしていくような社会政策は、本邦では年々難しくなっていくようだ。出生率が低い期間が続きすぎて、出生こそがアンチエイジングということにリアリティを持ちにくくなっているようだ。

悲しいことだがもうどうしようもないよね。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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