ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』読了した
進化心理学に詳しい人が書いた仏教の本である。
上座部仏教は進化心理学と相性が良いような気がしていたのだが、すでにこういう本が存在していて世界的にもベストセラーになっているというわけである。みんな似たようなことを考えるもんだね。
英語圏でこういう議論がさかんにされているということに興味をもった私はあろうことか原書を買ってしまったのである。
結論から言うととてもじゃないが英語で読める代物ではなくて、日本語訳で読む羽目になった。例えば、
私たちは映画を監督しているつもりでいるが、実際にはただその映画をみているにすぎない。あるいは、みなさんを言いくるめられないことを承知であえてたとえるなら、映画が私たちを監督している。
とか、日本語ならかろうじて理解できるが、英語だと厳しいものがある。まだまだ英語力が足りないのだなあと反省するとともに、英語力が母国語を超えることはないという厳然たる事実を再確認することにもなった。
この記事で書いたような事情があって、原書も日本語訳も買っていたのでよかったが、原書しか手元になかったら途中で放り出すか、眼が滑りまくって読んだ気になるだけで終わっていただろう。
なお、日本語版を読み終えたあとにもったいないので(サンクコストといわないで)原書も読んだがそれでもまだしんどかった。
内容については、瞑想を実践しないとわからないように、読んでいただくしかないのだが、非常に面白い。
まず渇愛を滅尽するのはなぜ難しいか。欲求が満たされてそのまま永続するなら滅んでしまうからである。砂糖漬けのドーナツを食べて満足してしまったら餓死してしまう。だからまた食べたくなるようにデザインされているのだ。しかし飽食の時代においてはひたすら砂糖漬けドーナツを食べ続けたら肥満になるし、場合によっては糖尿病になっちゃう。
こういう旧石器時代には都合が良かったが今はむしろ悪いような性質(バグといっていいだろう)は、2500年前ゴータマ・ブッダが生きた時代にはすでに問題になっていたと思われる。2500年前なんてついこないだだからね。
こうした感覚、欲求を自分から切り離して観察するうえで瞑想はとても有用である。実際に著者が瞑想合宿で経験したことを交えて書いてあるのでわかりやすい。
無常や無我についても様々な心理学の実験を紹介しつつ説明してあるのがいい。
例えば、美しい女性の写真を見せられた男性は時間割引率が極端に上がる。つまり、今がまんして将来大きな資産を手に入れようとする性質が弱まるのである。魅力的な女性を手に入れるために今お金が必要な気分になるのだ。自分をコントロールするのはかくも難しい。無我である。自己なんてものはCEOでもなければ大統領でもない、せいぜい下院議長くらいのものだと著者はいう。
あるいは無常(空かも)の説明として、ジョン・F・ケネディが所有していたとされる巻き尺に大金を払った男の話が出てくる。ただの巻き尺になんらかの「本質」を見出してしまっているのである。他にはヘルマン・ゲーリングが所有していたフェルメールが贋作とわかったとたんにがっかりしたとか、好事家でも中身は同じでも高そうなラベルとかお値段のワインを高く評価してしまうとか例はいくらでもある。
またここまで極端でなくとも自分の持ち物にちょっとした「本質」をラベリングしてしまっていることはある。愛着とかあるいはもっと些細なものだったり。こうした観念とか物語は人間の中に勝手にやってきた思考である。本質でも本性でもない。それらによって豊かに生きられるならいいが、我々はしばしば振り回されてしまう。
こうした誤った「本質」の極めつけが、自分である。誰もが自分を特別と考えがちという心理学的に示されている。また自分の属する集団についてもそうした傾向がある。旧石器時代には生存に有利に働いたそういう傾向も現代では邪魔になることが多い。
著者はこうした性質をある程度は瞑想によって克服できると繰り返す。そして著者自身はADHDという瞑想に向いてないタイプであり、仏教徒ではなく輪廻も信じていないというのもなんだかとっつきやすい。自然選択において有利になるよう埋め込まれた性質であっても、現代でも望ましいことなら捨てる必要はないとも書いている。
だから瞑想するのにそんな堅苦しく考える必要はないんだなあと小学生並の感想になるのであった。