須原一秀『自死という生き方』読んでみた
いかめしいタイトルの本だ。
サブタイトルに「覚悟して逝った哲学者」とある。
本書は2006年に65歳で処決した哲学者須原一秀氏の遺稿に浅羽通明氏と須原氏のご子息のエッセイをつけて出版したものである。
本書の中心は、自死ないし間接的自殺を遂げた三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスの最期についての考察である。
この3人はわりと人生がうまくいっていたほうでとても自殺しそうにないキャラであった。彼らが処決したのは、人生が充実しており、これ以上の快感は人生において得られないと達観しており、老醜を避けるために自裁したというのが著者の見立てである。
それを補強する論拠はいろいろあげられており、それなりに説得力はあるものの、著者の意識を反映しているだけといえなくもない。
彼らは人生の極みに達していたので、厭世主義あるいは虚無主義から自殺したのではないとも述べている。元々ぼちぼち死にたいなと思っていたところに、血気に逸る若者との出会いだとか、根も葉もない女性問題とか、でっちあげの罪だとかがあって、これ幸いとばかりに便乗して自殺したのではないかというのだ。
なお著者自身も、自分は厭世主義者でも虚無主義者でもないと断言している。つまり嫌なことから逃避するような自殺ではないと言いたいのであろう。だが積極的処決と逃避的自殺をきっぱり分けられないのではないか。西部邁などは両方が同居していたように思われる。
とはいえ須原氏の述べるところにはおおいに納得できる部分もある。氏や上述の3人は老醜という人生の一部分は否定したが、人生そのものは肯定している。
(太字は引用者)
生命至上主義は生きていること以外の価値を認めなくなるために虚無主義に陥ると西部も指摘していたのと全く同じだ。
また本書では当然にして『葉隠』を取り扱っているのだが、平和な時代に官僚主義に取り込まれそうで、武士としての主体性を護持すべく死にたがっていた武士たちの支えになったのだろうと言っている。これも妄想と切って捨てることは可能だが、魅力的な妄想だ。死にたがっている人間が多数いたから、このような書が出され、広く受け入れられたのであろう。
現代の聖女といわれたキューブラー・ロスも取り上げている。多数の死を見届けてきた彼女も脳卒中に倒れ、しかしキリスト教であるがゆえに自決もできないという苦しい状況で死を受け入れられないのだ。非常にデリケートな問題だ。
その晩年のロスのインタビューはNHKでも放送されて話題になったようだ。
須原一秀氏の話に戻ろう。
最後は自死を友人に告げてからの日々が淡々と綴られている。わりと平常心で過ごしておられたように見受けられ、それに関して家族の証言も付されている。
平常心で受け入れられるためには同士がいたほうが良いとの助言も著されており、なかなか実践的な面もあるなと感心してしまった。
個人的には自然死について悪く捉え過ぎではないかと思う。そのへんはシャーウィン・ヌーランド『人間らしい死にかた』の記載に依拠しているようだが、最近は緩和ケアも充実しつつあり、癌死に関してはそこまで悲惨なものではないよねって思うのであった。
とはいえ全体としては、非常に考えさせられる内容である。読んでよかったと思っている。
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