富岡幸一郎編『西部邁 自死について』
今日はこの本のご紹介である。
文芸評論家の富岡幸一郎氏が、2018年に自裁した西部邁の書き残したもののうち死生観に関わるものをまとめて出版したものである。
驚くことに、1994年西部が55歳のときに出版された『死生論』から、考えていることがほぼ変わっていないのである。ちなみにマジック・ジョンソンを思いっきりdisっている箇所は割愛されている。
そしてそれはあくまで死生観の域を出ていないことに遅まきながら私も気がついたのである。
先立った妻との日々も西部が残しているのだが、妻の闘病を支える姿は自らの死のシミュレーションを20年以上繰り返してきた人間とは思われないほど献身的なのである。本人としてはそんなつもりはなかったのかもしれないが、私にはそのように見える。
西部自身は潔く死にたいと考えていたことは明白であるが、それを他者に求めることはしていなかったと思われる。それは西部個人の死生観なのであるから当然である。
富岡氏は『葉隠』を引いて、今の日本は死を意識する機会が激減したというが、『葉隠』とて武士が戦で死ななくなった時代に書かれたものであるし、山本常朝自身も畳の上で亡くなったと伝えられている。
『葉隠』の時代と現代日本が決定的に異なっているのはそこではない。史上類を見ない高齢化である。西部は意図的か無意識にかはわからないがそのことに触れていない。だから個人の死生観の域を出ないのである。
とはいえ、西部はもちろん高齢化社会の陥穽に気づいていないわけではない。死が遠くなり、ひたすらに延命を願うばかりに、そのためなら何をしてもよいという虚無主義に陥ると鋭くしている。
私はこの虚無主義は、生命の誕生と継続の軽視につながっていると思われてならない。生命至上主義は様々な経路で反出生主義へとつながっていく。
西部がコロナ禍の前に亡くなっているのは意味深長である。私が人類史上前例のない高齢化を強く意識するようになったのはCOVID-19以降である。西部とて現在の惨状を見れば、彼自身の死生観を超えて言及せざるをえなかったのではなかろうか。
あるいはこんなものを見なくてすんで幸せだったのかもしれない。自身の弟子の醜態も見なくてすんでよかったのだろう。
本書の最後には富岡幸一郎氏のエッセイがついている。西部の自裁は、三島由紀夫、芥川龍之介、江藤淳らの自死とは異なっているという。私も西部の「簡単死」についてそう思わざるをえない。死は私的なものであるが、公的なものでもある。生が完全に個人的で「自己責任」でないのと同じことだ。「簡単死」はそのことを強烈に意識させてくれるのだ。