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シンエヴァンゲリオン観てきたお

先日やっと『シンエヴァンゲリオン』観てきたんだ。

それなりに楽しく観ることができた。

メカはよく動いていたし、商業映画としては十分に合格点ではないかと私は思った。

私はエヴァンゲリオンにそこまで思い入れがあるほうではないけ。しかし、それなりに世代的には思うところはあったので、決着がついたということに安堵というか、もやもやが晴れたところがあり、非常に感慨深かった。

以下ネタバレ気味で感想書くので、未見の方はご注意ください。



残念だったところは、最終的にメタに逃げたところかな。悪い言い方をすれば夢オチみたいにとれなくもなかった。25年待たせたんだから、ちゃんと作り上げた世界観の中で決着をつけてほしかった。

人類補完計画とかいう大仰なものが、碇ゲンドウの個人的すぎる事情が発端であったというのもややがっかり。まあある程度は予想していたけど、それにしてももっとなにか大義名分があってもよかったんじゃないのか。これじゃコミュ障のおっさんが世間を逆恨みしただけみたいな話になるじゃないか。

さらに多くの人が突っ込んでいるように、真希波・マリと碇シンジがくっつくというプロットがあまりにも説得力がなかった。この二人ほとんど接点なかったやん。綾波シリーズは第3の少年に行為を持つようにプログラムされているという設定のほうがよほどリアリティを感じる。たとえそれがプログラムされた感情だったとしても、それこそが長い時間をかけて作り上げたものなのだからオーディエンスにとってリアルなのだ。優れたSF作品は作られた感情にリアリティをもたせることに成功してきたはないか。

という具合に言いたいことは色々あるものの、ちゃんと終わったという感慨のほうが大きい。図体のでかい組織を率いることは大変だし、この規模の作品を撮り切るというのは並大抵のことではない。

終わればいいというものではない。スタッフに次の仕事があるように商業的に成功しなくてはいけない。そのためには一定数のマニアを失望させることもあるだろう。それらを負って立つのが大人ということだと思う。

大人ということを最も体現してみせたキャラクターは葛城ミサトだ。新劇場版二作目の終盤で碇シンジをけしかけておきながら、3作目で急にシンジに冷たくなり、(゚Д゚)ハァ?となったが、本作終盤でその責任の所在を明確にした上でヴンダーで特攻をかける。
三石琴乃さんも素晴らしかった。声優さんたちがほぼ全員健在というのも良かった。

大多数の人々にとって、大作映画を監督するとか、人類の運命をかけて戦艦で特攻するとかいったことは絵空事である。責任を持つ、大人であるとは、第3村で描写されたようなことだろう。子を育て、日々労働してコミュニティに貢献する。農村の描写にリアリティがない(田植えの方向が逆であることは私でもわかった)という批判はあるにしても、関係性の中においてしか存在しえない人間の本質を描きたかったのだなということはよくわかる。

葛城ミサトのパートナーであった加持リョウジも次世代のために死を選んだ。鬼滅の刃もそういう話だった。もちろん自死を推奨するものではないが、ただ心臓が動いていればよい、次世代を犠牲にしてでも生きていればよいという風潮も一部みられる昨今、人々の未来のためにという価値観を内包する映像作品が支持されるのは悪いことではないなと思うのであった。

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はむっち@ケンブリッジ英検
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