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『禅とオートバイ修理技術』読んだ

悪猫さんが紹介されていたこの本が気になってついつい読んでしまったのである。

1974年に出版された本書は全米ベストセラーとなった。ヒッピーとかビート・ジェネレーションな時代であるからタイトルに禅がついてるのだろうが、禅はあんまり関係ない。

禅は関係ないけど、辛気臭い哲学的思索に満ちあふれており、しかもけっこう長くて、よくこんなのがベストセラーになったものだと思う。そういう時代だったのだろう。

精神に異常をきたしたために電気ショック療法を施され記憶喪失となった主人公が、息子とともにバイクの旅に出るという筋立てである。

主人公は以前の自分をパイドロスと名付けており、パイドロスの思考の過程を再発見することが旅の主題の一つである。もちろんパイドロスはプラトンの「対話篇」からとったものである。

旅しながら過去を辿り思索を深めていくのだが、バイクのメンテナンスについても語る。タイトルの後半は嘘ではない。

思索はまず古典的とロマン的の二項対立から始まる。古典的とはプラトン的な論理や本質を重んじる合理的思考である。ロマン的とはそれとは反対に感性を重視する発想である。朱子学vs国学みたいなもので、人類の思想はこの2つの間を行ったり来たりしてきたのだ。

その探究はやがて二項対立を超えるべく、合理性と善さ(クオリティ)が一体であったプラトン以前のギリシャへと向かっていくのであった。

しばしば思索は現実離れするのだが、定期的にバイクのメンテナンスの話題に戻る。主人公にとってバイクいじりこそが自分を現実につなぎとめるサムシングである。

現代人にとってテクノロジーはブラックボックスとなっており、1970年代の意識高まったアメリカ人にとってそれは疎外感の原因にもなっていたと思われる。

バイクは慣れれば自分で修理できる部分も多いので疎外感からほんの少し逃れられる。バイクいじりにハマる人があとを絶たないのはそのせいだろう。イージー・ライダーが流行ったのもそういう事情かもしれない。

バイクは機械であるから、その修理は合理性の塊なのだが、眼の前の作業に没頭することで得られる悦びはロマン的でもある。そこに二項対立の解消をみることもできよう。

という感じでとにかく辛気臭い上に長いのだが、親子のヒリヒリするようなやり取りも随所に挿入されていて退屈させない作りにはなっている。
なお現在手に入る邦訳は増補版であり、序文に息子についての衝撃的な結末が記されている。

そんなわけで万人に勧められるものではないけど、意識の高さではなく、精神の高みへ上り詰めたいという中2マインド溢れる諸兄は読んでみるのもいいかなと思ったのであった。



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はむっち@ケンブリッジ英検
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