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沼田和也『街の牧師 祈りといのち』読んだ

昨年発売された沼田和也先生(ぐう聖)の新著をようやっと読んだのである。

沼田先生がかかわった弱者についてまとめたもので、かわいそうランキングの高い人も低い人も含まれている。そこには言うまでもなく沼田先生の優しさ誠実さが溢れ出ており、やはりぐう聖だなあと感じるのであった。
特に自身の過去の過ちを苦渋とともに振り返りつつ、自分も赦されてあるのだから他者も赦さなくてはと語る。しかし同時に、他者に赦しを説くことの危うさにも目配りされているのがすごいなあと思うのだ。

そして沼田先生は悩ましいことがあるたびに、イエスが現代に生きていたらどうするかと考える。そして聖書の言葉が現代的な意味をもって蘇ってくるのであった。

全体的な感想はこんな感じ。
いくつか印象に残った箇所を挙げていく。

沼田先生がひょんなことから知り合った家出少女を同僚に教会に一晩泊めてから福祉に繋いでくれないかと頼んだところ、その同僚は「なにかあったら責任が取れないから」と警察に保護してもらおうとした。当然その少女は警戒して逃げ出してしまった。。。その同僚の思考は社会人の男性として非常に真っ当ではあるが、沼田先生は懊悩する。

責任も取れないのに、わたしはその場だけのいい格好をしようとsちあ。そして責任の所在という思い問題が頭をもたげるや、保身に走ろうとした。それでも、わたしはずるずると考え続けている。「責任をとれないことはやらない」でいいのだろうかと、往生際の悪い悩みを続けている。

なにかあったらどうするんだ?と関わる人間に大きな責任を求め続けた結果、だれもが無難な方向を選ぶ、つまり見てみぬふりをする。そして助かるものも助からなくなる。これでいいのかと私もよく悩むのだが、沼田先生も似たような悩みを抱えておられるのだなあと知って少しホッとしたのだ。

また沼田先生が『ピダハン』を読まれていたのはやや驚いた。著者は宣教師としてブラジル先住民とともに暮らしながら最終的には棄教するのである。

彼がキリスト教を捨てるに至った経緯を、わたしは衝撃とともに受けとめた。他人事とは思えなかった。わたしもまた、世界じゅうの誰もが自分を助けるべきであり、自分は救われて当然であるという自意識を、しかも無意識の自明なる前提として受容していることに気づかされたからである。そして多くの現代人の苦悩も、この前提と深く関係しているのではないかと考えたのだ。

ピダハンの人々は死にたがっているわけではなく、死が比較的日常であるから過剰に遠ざけようとしないだけである。だから現代人のように「死にたい」と悩むこともないようである。
『ピダハン』は、川辺で一人で難産したあげく死んでしまう妊婦とそれを見守るでもなく無視するでもなく眺めているオッサン、というまあまあ衝撃的なエピソードなんかもあって、ぜひとも読んで欲しい一冊である。

「自分は救われて当然であるという自意識」を相対化しつつも、福祉は他人に羨まれるような水準であるべきだとも沼田先生は主張しており、ここはちょっと理解できなかった。福祉を受ける人は、生産する人々、つまり労働者に依存しているのであって、「弱者」が羨むような福祉を受けるということは労働者を搾取することになる。搾取の程度が甚だしくなれば、労働者も限りなく弱者に近づいていくと思うのだが、、、

もう一つ印象的であったのは死刑囚にまつわるエピソードである。死刑囚表現展などで死刑囚の内面に触れて次のように語っている。

わたしは実感したのである。殺すのは法務大臣や刑務官だけではない。死刑に対して消極的にであろうがなんであろうが、とにかく反意を示さず、法に従い納税もしている。他ならぬこのわたしこそが、彼らを「責任をもって」殺すのだと。このわたし自身が、彼らの死に対して手を汚すのだと。

このような自覚を持つ人はまれであるということがよくわかったのがこの3年でしたね。

自らも手を汚しているという自覚なく、善人ぶる人々をたくさん見てきた。

そういう人たちとは仲良くできないなあと思いつつも、世の中のあらゆる不幸に自らの責任を見出すような生き方はしんどいなあとか思いながら読了したのであった。

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