貞包英之ほか『自殺の歴史社会学 「意志」のゆくえ』読んだ
久しぶりに自決シリーズだ。
しかもみんな大好き社会学だよ。
タイトルのとおり意志を手がかりに近現代日本における自殺の捉えられ方の変遷を考察したもの。
デュルケームが意志の存在をいったん無視して統計的に自殺を考察したのに対して、本書では自殺における「意志」を社会がどのように扱ってきたかを問う。
こう書くとありきたりだが、けっこうラディカルな内容であった。
ひとが自由に意志することは近代における重要な前提である。しかし自殺への介入となると、個人の自由な意志が障害になる。
しかし自殺が自由な意志によるといえるかは疑わしい。てかあらゆる行為についていえることだけどね。
前近代には超常現象、精神錯乱、貧困などの外的要因が自殺の原因と考えられていた。
しかし1903年の藤村操、1927年の芥川龍之介の自死にみられるような、本人の意志や不満に基づくとみなされる「厭世」が自殺の動機として激増していく。
自殺を個人の意志のみに基づくものとして判断するのは20世紀前半に始まった歴史的現象と理解しうるのである。
とはいえ近年では自殺が個人の意志にのみ帰する見解は弱まりつつある。精神医学をはじめとする予防においても、過労やいじめによる自殺に関する司法においても、自殺が個人の意志によるものならば現実的な対処は困難となるからだ。
この矛盾は生権力においても顕現する。生権力は勝手に自殺することを嫌うが、自らの生を意志によりコントロールすることを要求する生権力の極地が自殺であるともいえるからだ。
さらには生権力が前提とする意志と自殺の結びつきを解除して、自殺を社会的資源とする動きも現代ではみられるのであるから、事態は単純ではないのである。
このように近現代日本における自殺の変遷を追う意欲作である。いけないこともけっこう書いてあって面白かった。
例えばここ10数年景況が悪化してもあまり自殺者が増えない、少なくとも中高年男性に関しては振れ幅が小さくなっているのは、借金をする人が減っているからではないかと一部界隈で言われているが、それを傍証するような記述もあった。
しかし歴史といいつつ、古代よりある武人の自決について一切言及がない。20世紀においても、大東亜戦争終結時に杉山元、阿南惟幾、宇垣纏、大西瀧治郎らが自決しているのである。
とはいえそれらは一部の階層の慣習だからあえて触れないのは合理的ではある。
以下備忘録。
第一章「自殺を意志する 20世紀初頭における厭世自殺」
そもそも19世紀までは自殺という包括的概念がなく、心中、殉死、諌死、仇死、神隠しなど手段や様態によってばらばらに把握されていた。明治政府は西洋に習って死因統計をとるようになるが、精神錯乱、病苦、貧困など外的要因ごとにとらえていた。
これを大きく変えたのが藤村操の華厳の滝での投身自殺を嚆矢とする厭世自殺の流行である。外的要因ではなく、内在的な動機に基づく自死が社会的に認知され、当事者の意志という共通の原因によるものではないかと疑われるようになる。
著者は20世紀前半に厭世自殺が急増した要因を、自殺の医療化、イエと警察の対立、消費社会化の3つの観点から考察している。
自殺の医療化
19世紀末以降の精神医学の確立、しかし一般社会では自殺の原因を精神錯乱と思われたくないので、20世紀前半は統計上は精神錯乱は急減した。またそもそもそれらに対処する医学的手段がなかった。それらの多くが厭世自殺に組み入れられたと考えられる。
家と警察の相克
家の名誉のために自殺は隠したい。とくに精神錯乱となると世間体が悪い。しかし近代以降は警察が死因究明に出張ってくることになり、隠しおおせなくなる。
内務省=警察と内閣統計局→厚生省の二系統の自殺統計があり、前者が圧倒的に多い。後者はおおむね家族の自己申告であるから、当然そうなる。イエの力が相対的に強い地方でこの乖離は大きくなる。
医療機関で働いている人はよく知っていると思うが、警察は死亡に事件性がないか非常に敏感である。原因不明で放置するのを当時の警察も嫌ったであろうから、厭世自殺は便利なカテゴリーであったと思われる。
またイエにとっても、厭世であれば貧困や精神錯乱よりは世間体が良い。
消費社会化
マスメディアの発達により遺書を広範に流布することが可能となった。自己表現の手段となったのである。またマスメディアにとっても「紙面の埋草」として都合が良かった。
このように20世紀前半は厭世自殺が急増したが、20世紀後半には減少し、現在では統計上のカテゴリーとしては存在しない。精神障害や経済問題が再び多数を占めるに至っている。
ひとつには戦後には自殺を隠す動機が弱くなり厭世という便利な概念を必要としなくなったからであろう。その証拠に厚生省による人口動態統計と警視庁の自殺統計の乖離が小さくなっている。これは家の力が警察よりも弱くなっていることも示しているだろう。
また精神科病床の急増、精神医学の発展により、厭世にカテゴライズされるものが減ったことも原因にあげられよう。
このように自殺と意志を結びつける道具立てとしての厭世という概念、語彙は姿を消し、精神疾患や貧困などの外的要因に対処することで自殺予防対策を行っていくのが現代の流れである。
とはいえ自殺に当人の意志が全く介在しないと考えるのも常識や直感に反しており、これが過労やいじめにおける補償で問題となる。また個人の意志に社会が介入していく、いわば生権力にたいする忌避感を持つものもそれなりにあるだろう。
第二章「自殺を贈与する 高度成長期以後の生命保険に関わる自殺」
20世紀半ばには自殺の原因に占める経済的困窮の割合は1%にまで落ち込んでいた。しかしバブル崩壊以降激増している。
ここで高度成長期以降の自殺の増加において、中高年男性の割合が高くなっていることが注目される。また中高年男性の自殺の実数も自殺率も急増している。
生命保険との関連でいえば、中高年男性の生命保険加入率は高く保たれ、また複数の生命保険への加入も多い。さらに20世紀終盤に自殺への保険金支払い件数が激増していることは注目すべきであろう。1999年は3万4千人が自殺しているが、自殺に対して13万件の死亡保険金が支払われた。約4倍である。ちなみに20世紀前半は0.1倍程度であった。
これだけで生命保険が自殺を促しているとはいえないが、生命保険と自殺の関連は非常に興味深い。興味深いというか、この章はきわどい記述が多いので引用を。
そもそも自殺とは絶望しておこなわれるものとみなされているが、生命保険に関わる自殺では死をマネタイズすることが想定されている。富の贈与、なんなら一種の希望として実行されているかもしれない。
これを裏付けるデータとしては免責期間を過ぎた直後に自殺が多発すること、死亡保険金2千万円を閾値として自殺が大きく増えることが挙げられいてる。また自殺者はしばしば複数の生命保険に加入している。
ただし生命保険加入者を母数とした場合には自殺率はむしろ低い。生命保険を必要とするのはそれなりの経済力がある層だからだろうか。それに簡単に自殺されたら保険会社としてもたまったものではない。
法的には、契約の信義関係を損なうものとして、保険金を目的とした自殺に対して支払う必要はなく、保険会社は拒否できるのである。
だが実際には保険会社は保険金を払っている。1から3年の免責期間を定め、その期間の自殺はほぼ自動的に支払いを拒否するかわりに、それ以降には保険金目当ての自殺は存在しないはずというアクロバティックな論理を用いて、支払ってきたのである。
この建前により遺族は保険金を受け取れるし、保険会社は払う払わないの言い争いでイメージを悪化させるのを避けられる。
もちろん、生命保険とは無関係の偶発的自殺という扱いになり、遺族は保険金目当てだったなどとは公言しない。警察の統計でも保険金を目的とした自殺は非常に少ないことになっている(年間150人くらい、自殺に13万件支払われているのに)。警察だって大人の対応をしているかもしれない。
自殺者がどれほど保険金略取を意志していたかはそもそも検証不可能であるが、生命保険という仕組みが故人の意志をさらに検証不可能にする構図を作り出していることは注目に値する。
戦前の生命保険(養老保険)は積立型の生存を意識したものだったため、自殺にたいしての支払い件数は非常に少なかった。しかし1960年代以降、死亡保障を手厚くするタイプの定期付き養老保険が登場し、掛け金の10倍以上もの死亡保障をつけるものまで売り出される。現代では終身保険と呼ばれているものである。
この背景として、戦後のインフレにより貯蓄的な保険は危険だと認識され、生命保険事業は他の産業に立ち遅れていたことがある。これを挽回すべく、インフレに強い、高倍率化した死亡保障を付けた保険を販売したのである。
戦前の養老保険は、働けなくなった家長の所得を補償することで家長の体面が保たれ、大家族の維持に貢献した。しかし親の自活を可能にすることで、子供たちが家を出る要因ともなった。
戦後の核家族は世帯主の死亡をという重いリスクを負うことになり、戦後の定期付き養老保険、現代の終身保険は、大衆に浸透したのである。
生命保険は核家族のまさかの不安を解消することで消費活動を促し、高度成長を支えた可能性がある。なかでも持ち家の購入に関わる団体信用生命保険の役割は大きかったと思われる。販売者や銀行からも不安をとりのぞき、多くの人がそれなりの財産を形成することになった。
主たる顧客は家庭だけではない。自営業者である。戦後に財閥や問屋から中小企業は解放されたが、資金調達に苦しむことになる。銀行から融資を得るために、地価が上昇し続けた土地や、経営者や親族にかけられた生命保険が担保になった。
このように生命保険を介した地価上昇や融資が高度成長を下支えした可能性が考えられるのである。
ここらへんからだんだんと過激になってくるので引用。
ちなみに戦後には保険金殺人も爆発的に増加した。
こうした情況にあって、生命保険会社は自殺を自覚的に引き受けた。産業の成長、消費者の期待に応えるという側面があり、1970年代には免責期間を短縮することさえしたのである。
命を担保に借金する慣習は、踏み倒すくらいなら死んだほうがよいという残念極まる規範がある。
しかし自殺は借金返済のベストな手段ではない。災害による死亡の場合、しばしば保険金は上乗せして支払われるからである。
それでも自殺が選ばれるのは、借金を踏み倒さなかったという自己満足だけでなく、遺された者に自らの意志で贈与するという感覚が得られるからであろう。
贈与の魅力が現代の自殺の社会的特徴の大きな部分を占めるのは多様な金融商品がある中で死亡保障が重視されることからもわかる。
現代は複雑な、しかしコスパのいい、生前にも受け取れる保険がたくさんある。でもあえて死亡保証を選ぶことで、死と引き換えに財産を残したという自己満足が得られるし、なんなら負い目をおわせることも可能である。
生命保険が社会に浸透した結果、20世紀最後の四半世紀がちょっとした景気の波で自殺者数が上下動するようになった。
また経済不況はさらなる担保、つまり命を差し出すことを要求するようになる。
いちおう近年は、いわゆる逆ザヤとか、景況悪化とか、自殺に対する支払額の増加などで、生命保険会社も財務が悪化しており、自殺に対してシブチンになっている。免責期間も延長する傾向にある。
1990年代末以降の免責期間延長は生命保険加入者の自殺を減らした可能性がある。もっとも免責期間中の自死を、事故死や病死にして保険金を払っている可能性は否定できない。
むしろ近年では若年者の自殺が相対的に増えており、彼らの多くは生命保険に加入していないだろう。
つまり生命保険に関連する自殺が減ればそれでいいわけではない。
この章はこんな過激な口調で終わっている。
過激ではあるが同調するほかない。
若い男たちが貧しくなり、結婚できず子供もできなければ生命保険に入ることもなく、保険金を目的に自殺することもないだろう。ただし別の経路から自殺するし、それが近年の若年者の自殺の相対的増加なのだろう。
あるいはそんな閉塞した社会では、借金してまで事業を起こすものは少ないだろう。だから金利は下がりっぱなしである。
近年の自殺の低下傾向は、おおむね行政や民間団体の努力によるもので好ましいと思っているが、借金する必要がない人、つまり首を吊る契機を欠いている人が増えてるからという側面もあるはずだ。
第三章「自殺を補償する 21世紀転換期の過労自殺訴訟」
保険金自殺の良いところはお金が発生することだ。しかし過労やいじめによる自殺は自動的にお金が湧いてくるわけではないので揉める。
過労については労災で補償される可能性があるが、それも各種の法廷闘争があってのことである。そのきっかけとなったのは、1991年に電通の若い男性社員が自裁した件である。これは最高裁までいって雇用者の注意義務違反が認められ和解金が支払われた。これ以降、過労自殺に労務災害が認定されるようになったのである。
自殺をめぐる訴訟において厄介なのは個人の自由な意志である。賠償しろといわれても、勝手に死んだんやから知らんがなと言えなくもないのである。生命保険の場合、免責期間を過ぎていればOKという暗黙の了解があるが、過労やいじめではそうはいかない。
自由な意志という近代の大前提をひっくり返すのはそれなりに大変なことだったのだ。
過労やいじめという外的要因があって、精神障害となり、自死するほかない情況になったという論理を組み立てた上で、外的要因のところで企業なり学校なりに注意義務違反や安全配慮義務違反があったとして補償を求める。
そしてなんらかの違反があったこと、自殺の危険を予見できてかつそれに対処しえたのにしなかったことを、原告が立証しないといけない。さらに立証できたとしても、本人や家族にも多少の落ち度はあるだろうから過失相殺で、賠償金は何割か減額される。
過労の場合は、裁判無しで労務災害が認定されることもあるが、いじめは厄介である。
第一義的にはいじめの加害者に責任を問うべきだが、多くの場合は未成年だろうから無理である。なので学校を相手取って訴訟することになる。
難しいのは予見可能性である。そもそも未成年の自殺は非常に少なく、自殺を予想するのは容易ではない気がする。たいていの訴訟で裁判所はそういう方向で判決を出しているようだ。
私はこれは妥当であると考える。未来のことを予測するのは簡単ではなく、たまに医療訴訟の判決文に「これこれの結果は予見し得たはずである」みたいなことが書いてあるが、ほなおまえがやれやと言いたくなる。
ところが著者は裁判所にどうしても学校の過失を認定させたいようである。ただでさえ少ない自殺をゼロに近づけるよう学校に強いるということは、学校の職員を過労に追い込むことになりかねない。さっきまで過労の自殺について書いていたのに、そんなことに想いが至らないのは社会学者だからしょうがないのだろう。
ちなみこの章の著者は、1,2章の著者とは別人である。