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緋娜さんの記事『◯◯なんだから△△しろ』を読みました~叩けと言われたので叩いてみるテスト~

Note記事:『○○なんだから△△しろ』(緋娜さん)

 読みました。最終行の正しさが光りますね。まずは2000字超を書き上げたことを心から賞賛したいと思います。しかしながら、同時に「叩いてみてほしい」との希望もあり、Twitterでの同氏との交流も鑑みると、とりわけ私には「反論」する義務があることかと思います。

 というわけで、『実践:高校生なら勉強しろ』の部分について、私は「高校生なら勉強しろ」と主張する側を持ってみます。


『ヴィーガンなら肉を食うな』の圧倒的正しさ

 手始めに『ヴィーガンなら肉を食うな』という文を取り上げたい。これはもちろん記事で問題視された「高校生なら勉強しろ」や「男なら我慢しろ」と同じ構造を持っている。したがって、記事で紹介されているような方法、すなわち「大前提や小前提にツッコミを入れて崩す」ことをすれば、妥当に反論できるはずである。

 が、できない。

 「ヴィーガンでも肉を食べてもいいじゃないか」と主張することは、単に難しいのではなく不可能である。というのも、「ヴィーガン」の場合、「ヴィーガンである」という属性そのものが、直接的に「肉を食べないこと」を要請しているからだ。気軽に肉を食べる人は、そもそもヴィーガンとは呼べないし、また自主的にヴィーガンになることを選んでおきながら、「肉を食べてもいいや」と考えるのは妙である。ここでは「ヴィーガンは肉を食べてはいけない派」と「ヴィーガンでも肉を食べてもいい派」などという対立構造は成立しない。この場合、前提の共有は完全に強制的なものである。


高校生は勉強するものではないのか?

 私は今回、立場として「高校生なんだから勉強しろ」と言わねばならない。よって「ヴィーガン」と「高校生」が同じ性質を持っていることを指摘する。

 高等学校では「授業」と呼ばれるものがあり、学生はそれに参加し、まさしく勉強をしなければならない。そもそも高等学校は、中等教育を修了した若者に学問を教えるために設置されている機関であり、学生は皆それを承知の上で入学する。これは「知らなかった」が現実的に有り得ないという意味で『常識』である。
 であれば、私はこう言ってもいいのではないか? 「高校生である」という属性は、直接的に「高校で教えられる学問を学ぶこと」すなわち「勉強すること」を要請しているのだと。つまり、前提の共有がどうのだの、問いへの答えがどうのだのという与太話にはまったく取り合う必要がない。だったら行かなければ良いだけの話である。

 ダメ押しでたとえるなら、「高校生なんだから勉強しろ」は「労働者なんだから働け」という文と同じである。もちろん「働きたくない労働者」の存在はこの私を筆頭として挙げることができるだろうが、それは「反例」にはならない。少なくとも「労働者なんだから働け」の正当性を崩すものではない。単にやりたくないけれどやらざるを得ないというだけの話である。「高校生なんだから勉強しろ」に反論したがる学生にしても、なにかそこに「ロジック」めいたものがあるのではなく、私と同じ心情を持っているに過ぎないのではないか。


あとがき的なもの

 今回は「叩く」をTwitterで希望されたので、あえて強い表現を選びました。悪意はいっっっっっっっっさい無いのでご安心ください。書こう書こうと言っては全く書かない人が世の中にアホほど多い中、緋娜さんが抜きん出た存在であることを私は確信しております。
 

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