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『障害者施設反対問題』に関する新聞記事に見られる様々な欠陥:深草氏への応答を兼ねて

 先日、次の記事を読んだ。

◆優生社会を問う:障害者施設反対、21都府県で68件 事業者任せ「把握せず」も(毎日新聞)

 「障害者施設反対」とは穏やかではないが、当該記事の調査および考察にはかなりの不足がある。自治体ごとの反対運動の件数と、反対運動をした理由のアンケート結果を示しただけである。

 通常、問題解決を目指すなら、①現状分析 ②原因調査および考察 ③それに基づく対策の立案 ④効果の確認方法の提示――とここまでが1セットである。
 たとえば「クルマが動かない」という問題があるとする。次のようになるだろう。

①現状分析――エンジンが作動しない。
②原因は何か――エンジン自体の故障か、バッテリー切れか、その他か?
③対策は何か――故障していると思われる部品を交換する。
④対策の効果確認――実際に始動させてみる。

 しかし、記事では現状分析すらまともに為されていない。反対運動のどこで、どの程度、どのような理由で行われているのか。記述は非常に乏しい。分析らしきものは「障害者が危険視されている」というアンケート調査の結果だけである。はたして反対理由が本当にそれだけなのか曖昧な上、なぜ障害者は危険視されているのかも書かれていない。少なくとも、危険視される原因の候補くらいは考えなければ、対策も思いつかないだろう。

 個人的には、人目を引く事件――猟奇殺人、大量殺人、強姦致傷、放火など――が起きるたびに、容疑者の「心の闇」「精神異常」「脳の障害」などを喚き立てるマスコミの影響がまず思い浮かぶ。
 実際問題として、その手のワイドショー的な報道に日夜さらされていて、「主体的に適切な書籍や論文、統計データを精読していなかった」からといって、「差別的な観念を抱いた」特定個人をそう責められない。一般国民に求める水準として厳しすぎ、現実的でない。この場合、個人ではなく彼らを取り巻く社会環境が悪い。同じ社会環境を続けていたら、「偏見」は常に出てくるに決まっている。偏見を生成している構造を問題とし、それを解消する方向に動かねばならない。

 当然、このように分析的に考えることが、『「ナチスにもいいところはあったかもしれない」と同じ種類の言論』(深草氏)とは私は捉えない。ある問題を解決しようと思ったら、分析的になるのは当たり前でしかない。後述する2つの資料でも「偏見」の形成過程や、障害者施設反対運動の実態、取られた対応策などが分析的に書かれているが、執筆者らが「ナチスにもいいところはあったかもしれない」と同じ種類の言論に堕しているとは思われない。

 もっと踏み込んだ調査、考察が必要である。この意図もあり、私は次のようにツイートした。(※なお悪文であることは認める)

で、こういう記事が学校とかでは提示されて、「こういった反対活動についてどう思いますか?」みたいな道徳教材になるんでしょ。これについての正しい答えは「①◯◯、②✕✕……等の理由により、判断できない」「情報不足であるし、考察もなされていない。論外だ」あたりになるだろう。(午前6:14 · 2019年12月23日)

 『……等の理由により、判断できない』と書いたのは不親切だった。主語を書き落としている。これでは何が判断できないのか曖昧である。『記事で与えられた情報では、障害者施設反対運動の是非が判断できない』と書くべきだった。少なくとも記事中では、反対者らが間違っていることは立証されていない。反対の内容もほとんど不明のまま、ただ差別だと切り捨てられている。

 実際にはどうなっているのだろうか。『施設コンフリクトと人権啓発』(小澤温)に次の記述がある。

国立精研調査の反対事例をみると、反対運動は多くの場合、障害者(この調査ではとくに精神障害者)への危険意識を基盤にしているが、この意識に加えて、障害者施設を設置しようとしている団体や設置を許可した行政への不信感も加わっていることが重要である。地域住民の反対理由も、多くの場合、あからさまな障害者への危険意識よりは、住民の合意を取り付けなかった手続きの問題、事前の説明会がなされないことへの不信、行政の強引な施設建設計画への抗議といったことに移っていく状況がみられる。従って、背景には、潜在的な障害者への不安感があることも事実だが、必ずしもそれだけではなく、現実はもっと複雑な背景が潜んでいて施設コンフリクトが生じていると理解することが重要である。
(※強調は引用者による)

 また、『施設コンフリクトの解消に向けて』(「福祉と人権」研究委員会)にもこのように書かれている。

(大阪・西成区における)反対運動では、近隣にも福祉施設が建設されていることから「なぜ西成なのか」という精神障害者社会復帰施設の集中化に対する抗議と、施設の建設は地域住民にとって重大な影響を及ぼすといった行政に対する不信感が募ることとなった。
(※強調は引用者による)

 これではずいぶん話が変わってくる。「障害者は犯罪率が高い」といった誤解・無知であれば偏見と切り捨てることも可能かもしれない(実はこれにしてもそう簡単ではないのだが今回は扱わない)。しかし、行政手続きの問題や、障害者施設の特定地域への集中化に対する抗議であれば、単純な「障害者差別」には収まらない。
 もちろん、本当に手続きの問題があったのか、本当に集中しているのかは個別に検証が必要であろう。だが、一律に「障害者施設への反対運動」=「検証する余地のない悪行」とするのは、問題をまともに見てもいない点で重大な欠陥がある。ただ差別主義だというレッテルを貼れば、不必要な分断を深めるだけだろう。

 『施設コンフリクトの解消に向けて』においても、地域住民の啓発活動、説明会やシンポジウムの開催の重要性が繰り返し述べられている。私は参加していないので分からないが、おそらく「お前らは差別主義者だ!」とがなり立てたわけではないだろう。すなわち、ただ切り捨てたわけではない。「理解を求める」という形の、やや低姿勢な説明が行われたものと考えられる。
 では、こうしたイベントの主催者らは、切り捨てなかったというまさにその理由から、「ナチスにもいいところがある」的な考え方に染まっているとされるのだろうか。それは間違っている上、極めて失礼ではないか。

 当然ながら、私とて障害者施設に関する反対活動家の「いいところ探し」をやっているわけではない。問題解決のための一般的なプロセス、現状分析、原因調査および考察、対策の立案、対策の効果確認、を踏もうと主張しているだけである。

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