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お花見に行ってる場合じゃない

アパートのドアを蹴り飛ばすように開けて私は外へ走り出した。コーポ上沢野A-2棟103号室。築47年6畳和室ユニットバス。もういい加減にガタがきているドアに強い衝撃を加えたため、小指ほどの大きさの何かの金具が砕け散り、ひび割れた玄関のコンクリートに落ちた。構わず走る。

駅前にある微妙な色の塗装の「証明写真」の機械に入り、写真を撮る。なかなかイスをうまく調節できない。最近暖かくなってきたが、冬服を片付けられず分厚いコートを着てきてしまった。それで走ったため、汗をかき不快感がすごい。
もたもたしていたら撮影が始まってしまい、右肩が上がって変に引きつった顔の写真になってしまった。
近所のインド・ネパール料理屋のバイトに応募するための履歴書に、部屋の隅から掘り出した干からびかけたスティックのりで貼り付ける。面接まであと5分しかない。急いで店に駆け込むと、浅黒い肌の店主が真ん中の席に堂々とおり、よくわからない外国のアニメを見ながらのんきにカレーを食べていた。お客は1人もいない。
あっ、すいませんあの、バイトの…とまで声に出したところで店主がこちらを振り向き、「こんにちは。今日はどうぞよろしくお願いいたします。こちらにお掛けください」と丁寧な日本語でにこやかに挨拶を返した。
私もおねがいします、と返して履歴書を手渡し、面接が始まった。
「さとう はのん さん。ですね。」
店主は一言そう発し、佐藤波音と私がボールペンで書いた名前欄を手でなぞって、ゆっくり目を通していった。私もそれを無言で見守る。いつのまにか店主がアニメを見ていたTVは消されており、代わりに有線放送が店内に響いていた。

ここ2年ほど、アルバイトを始めては辞めを4ヶ月周期で繰り返している私は明日28歳になる。ろくでもない暮らし。
唯一人生を賭けてもいいほど好きだったギターは、2年前にバンドを解散した時から触っていない。むやみに行数の多い職歴欄をなぞる店主の指を見ながら思う。あんなに生活の中心だったものを、1文字も記すことができない。もしくは書いても、ほぼ意味がないのだ。
当たり前か。
「はのん さん。カレーは好きですか」
気づくと、俯いて考え込んでしまっていた私の顔を店主が覗き込んでいた。
「あ、はい、好きです、あはは」
不意をつかれ、よそ向けの受け答えを咄嗟に捻り出した私の声は干からびており、謎の湿っぽさで満ちている薄暗い店内の空気にすぐ飲み込まれた。
「それは、嬉しいです。意気揚々」
店主は意気揚々の最後のうを力いっぱい発音し、青いペイズリー柄のエプロンと透明なタッパーに入ったカレー、何かを包んだアルミホイル(多分かたち的にナン)を私に手渡した。
受かった。
急に薄暗い店内よりも、窓の外に見える桜の並木道とアスファルトに反射する日差し、明るく淡い水色の空が目に入ってきた。入学おめでとうの花を胸につけた小1が走っていく。なんて天気がいい日なんだろう。
とりあえず、なんとか生活を続けていけそうだ。窓に張り付いた桜の花びらを見つめながら私は思う。
早速出勤日について店主と話し合い、安堵の表情で帰り支度をしようとした時、スピーカーの有線放送からききおぼえのある声が流れていることに気づいた。
「りな子…」
言葉尻に不思議な癖のあるその歌声の持ち主と私は、バンドを解散してから一度も会っていない。
収容人数40人の小さな江古田のライブハウスを思う。タバコの匂いと強力なエアコンの冷気。元から聞き取らせる気のない歌詞を叫びながら、ステージの黒い床に、黒髪ロング、黒いワンピースで寝そべるりな子。青い照明が薄暗く照らし、裾から覗く今にも折れそうな程細い脚の輪郭をぼんやりと浮き上がらせていた。無数のかすり傷に頬をすりつけながら、マイクとリビドーを叩きつけていた彼女はもういない。
ハイセンスシティポップグループをかたる男女5人組、my blue berry pop concoursのボーカル、東梨名子。それが今の彼女の肩書で、グループは飛ぶ鳥を落とす勢いの人気になりつつある。
タワレコの広告にでかでかと張り出された彼らのアー写。オレンジのワンピースでカフェのテーブルに肘をつき、空中を見つめ微笑する男女ツインボーカルの片方、東梨名子。その向かいに座り、カップとソーサーを持ち上げ微笑するもう片方のボーカルの男。名前は知らない。
NO MUSIC,NO LIFE.
加入前。私たちが解散する前のいつからだったか。彼と交際し始めてから、りな子は変わってしまった。私はりな子とハードコアなロックの人生を生き急ぐ予定だったのに。

回想を断ち切るように、重いコートをやけくそな感じで羽織り私は店を出た。
歩道を歩いているうちに、自分のお腹が鳴りまくっていることに気づいた。そういえば、朝起きてから何も口にしていない。近くの三角公園で、さっきもらったカレーとナン(多分)を食べるか。
住宅街の真ん中、三角形の形の狭い公園は、始業式が終わり暇を持て余す小学生達の声で溢れかえっていた。小さな敷地内に無理やり植えられたかのような桜の木が、窮屈そうにひしめいていた。

公園の隅、三角形の頂点付近に、茂みに隠れるようにひっそりとベンチが置かれている。そこに私は座り膝の上でアルミホイルを広げた。中身はやはり、ちょうどいい具合に焼き目のついたナンだった。
ちぎって食べようと端に手を伸ばしたその瞬間、どこからかサッカーボールが飛んできて、私の膝の上に直撃した。
ボールは跳ね返り、その衝撃でナンは勢いよく転げ落ち、桜の花びらが散っている水溜まりの中に叩き込まれてしまった。
ハッと顔を上げると、ボールを持った小学生と目があったが、彼は一瞬「あっ」と声を発した後、すぐに知らぬ顔で目を逸らした。そして、謎の技名を叫びながらボールを蹴り飛ばし、仲間の待つ方向へ走り去ってしまった。

しばらく私は、薄暗い水溜りの中のナンを見つめた。
花びらまみれで水浸しのそれは、時間の経過とともに透明な水分と同化し、形を失っていった。

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