映る銀河の 大崎崇彦『しぐれ』私解
大崎崇彦兄から最初の作品集『しぐれ』を贈られてから、瞬く内に十数年が過ぎた。後に『頻浪』『棚端』(いづれも一九八八年 著者私刊)、『民草薙』(一九八九年 同)を上梓、詩集四部作はひとまづ完結ともいふ。詩人の来し方を振り返ってみれば、これらの詩作に先立ち、一九八二年には文語定型を旨とする歌誌「菴没羅(あんもら)」に同人として加はってゐる。爾後六年間に刊行された十七冊を今改めて読み直すと、近しく作歌の手解きを受けたであらう歌人の風に感化されたか、『民草薙』辺りの諸篇とは懸離れて位置すると思しい作品も散見するのには驚かされる。
清掻(すがが)けばあづなひ果つる連弾(つれびき)にいやほとりばむ褄のさざなみ
同人として初めて発表した「たまさか」二十首の内の一首。(同誌拾伍 昭和五十七年)「あづなひ」は男同士の心中ごととも解釈できるから、大胆な歌を劈頭から披露したことになる。何しろ、この詩人と江戸風俗を繋ぐのは想像だに難しい。「菴没羅」では和泉式部等の口訳が同人の手でなされたと聞いてゐるから、近世までの歌書には折々に目を通したとしても、筆者の知る詩人の好尚と江戸はだうにも結び付かない。当の本人も思ふ所あってか、この作を埋もれるに任せず、『しぐれ』にも採ってゐることを付け加へておく。
ところで、中には七・七・五・七・七といふ詩形も見え、早くも定型からの逸脱を予言してゐたとも言へさうだ。
血こそ蜜とや零(あ)ゆれば旨ましまほろばも降魔(がま)が時めくちゝのみの昼
そして次第に、五・五や六・八等の多彩な律動を用ゐるに及び、伝統短歌の枠に留まることを得ず、一九八六年には同人の座を退いてゐる。この経緯を受け、『しぐれ』は開板を見た。因みに著者本人は自らの作品を短詩と名付け、ここに引用したうたを詠んだその人を詩人と呼ぶのも、同じ所以である。
『しぐれ』には「菴没羅」掲載のうたを含む短詩形作品二百二十余りと、十八行に渡る詩一編が収められてゐる。水や衣の襞といった主題をまづ語るべきだらうとも、本稿では銀幕と洋画に関はる題材に焦点を絞りたい。そこで、敬愛する藝術家たちへのオマージュを並べてみれば、
今日うつし狭霧を透かし
顕(た)つエディット・スコブが俤の
細はしがみ繽(みだ)れ落掛る湍つ瀬
スコブが主演したフランジュ「顔のない眼」の一場面が思ひ起こされる作品。「菴没羅」でも「エディス・スコブに献づ」の題の下に作品を纏めたことがあり、詩人は歌姫の声容にも多いに啓発された様子が窺へる。因みに歌ひ手では他にアンナ・イデンティチの個性に着目、三十行に渡る散文詩「もくろみ」(一九八八年 九〇年「纖」掲載)を捧げてゐる。
贔屓の俳優と言へば、フィッシャー「吸血鬼ドラキュラ」からバートン「スリーピング・ホロウ」まで幅広く活躍するマイケル・ガウをはづす訳には行くまい。先述のイデンティチ頌にも並べて、「マイケル・ガウの面影に」の傍題を冠した散文詩「博士の飼育室」(同前)の筆を執ってゐる程、この役者への思慕の念は深い。その出演映画から詩人が選ぶ極め付けは「呪われた血族」(監督ヴィクトル・ライテリス Crucible of Horror 1972)、娘と妻に謀殺されかかりながら不死身、さかしらな女人を今一度屈させる厳父を、ガウが敢然と演じ切った作品である。
「反則すべし」
蓋し父たるの證しに
与る目覚め近ければ
さながら、家族の中で唯一認める息子に自覚を促すやうな、まことの意味で反時代の箴言だらう。
銀幕を彩った楽曲では、アルジェント作品を通して出会ったのであらう、ゴブリンに聞き入ってゐる。
待ちわびし梅雨(つゆ)の晴れ間を
まなうらに縹色めく
薄き展望
調べ出(づ)るゴブリン
「ゴブリン」へ
風が声差(こわざ)し嘯(うそぶ)かば
つづや二十(はた)とせ
ちなみ無く経よ
詩人がかくも深く映画に関心を寄せるのも道理、本書上木の前後、怪奇洋画を中心とする上映会を知友と盛んに開いてさへゐた。自身が「玄想映画室・白羊宮」と名付けたこの上映会の沿革については稿を改めたいが、一読して映画とは関連が無ささうな作品にも、上映作品から触発され生まれたイメェジが数多、刻み込まれてゐるだらう。それだけに銀幕通に読まれてこそ、『しぐれ』は最良の理解者を得られる筈なのである。
筆者もまた、映画を仲立ちにして詩人の知遇を得てゐる。忘れもしない一九八六年初春、イタリア文化会館で四夜に渡って催された「チネテーカ・イタリアーナ 娯楽篇六」、バーヴァ「血ぬられた墓標」(上映題名「サタンの仮面」)に続いての第二夜、マルゲリチ「ヒッチコック博士の恐ろしい秘密」を初めて眼に焼き付けた上映後、茶房への夜更けの道すがら名のり合ったことを鮮やかに思ひ出す。因に、今となっても、前者は音楽が差し換へられた米国版のみ、第三夜「幽霊屋敷の蛇淫」(上映題名「死の舞踏」)も冒頭の一部を割愛した大蔵映画版と米国版しか観てゐないから、この伊太利本国版上映は今思ひ返しても貴重だった。後に珍しい大蔵版の通眼が叶ったのも、詩人ともども「白羊宮」主人・繁田俊幸兄との偶会の余禄、もう一人の粋判官との縁を取り持った月下氷人もまた「チネテーカ・イタリアーナ」だったのである。最終日、澁澤龍彦にも似た容貌の詩人との邂逅を近しい画家に一刻も早く報告すべく、当時は映画に食指が動かなかった某君を同じ会場に呼び出してもゐる。ところが、新たに知り合った愛好家をそこここに見かけた客席も今日ばかりは皆無、上映されたアヴァーティ「微笑む窓のある家」もそれまでの三本とは趣を異にする作品ゆゑ気に染まなかったが、不思議な高揚感に独りごちていた。
「齣巻き戻せ」とく刻み
過がふ折ふし我が視野を
宛ら映ゆく照り返すとも
*原文の正漢字を略字に代へた。(庚辰神無月)
大崎崇彦(おほさき たかひこ) 略年譜
1957年生。
1977/8年 雑誌「花神」の作品募集に応じ、自作を投稿。選外の佳作十篇に選ばれる。
1982年 「現代短歌の超克」を謳ふ唯一の短歌結社「菴没羅」を「短歌年鑑」紙上で知り、代表者奥村憲右より既刊分を入手。自作を投稿、奥村より掲載の可否を尋ねられ快諾。
1983年7月 アーサー・マッケン論「都市と魔界の二断章」を発表。
同年 繁田俊幸と大蔵映画旧蔵フィルム上映の企画を進め、上映団体を「玄想映画室・白羊宮」と命名。10月14日、市ヶ谷シネアーツで「白羊宮」第一回上映会開催。
1986年初秋 第一作品集『しぐれ』を上梓。私家版、限定百部。
1988年3月発行の參拾壹を最後に「菴没羅」を退く。
同年 第二作品集『棚端』、第三作品集『頻浪』を上梓。いづれも私家版、限定百部。 1989年6月 第四作品集『民草薙』を上梓。私家版、限定百部。四部作が完結。 (中略)
2017年5月 根岸愛子等の英米文学研究会「オベロン会」で「『閑暇詠』『憂愁賦』を焦点として辿るキーツ詩想に於る楕円の軌跡」講演。
2018年5月 「オベロン会」で「キーツの妖精詩篇 A Song of Four Faeries について」講演。
2019年5月 「オベロン会」で「キーツ Ode to Psyche」講演。
予告なく割愛する場合がありますので、御諒承を。
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