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世界でいちばん安心する文体

新しく人と知り合ったとき、その人の印象としてまず最も深く残るのは、私の場合、顔でも髪型でも服装でもなく、その人特有の声色や話し方であることがほとんどです。これは私が人見知りで、あまり人と長く目を合わせられないせいもあるかもしれません。
また、新しい本に出会ったとき、その本の印象として強く刻まれるのは、私の場合、本の装丁でも書かれている内容でもなく、書き手の文体です。これは私が読書に最も強く求めているものが、グルーヴ感や心地よさだからだと思います。どんなに内容が素晴らしくても、文体が心地よくなければ、読み進めることができません。

そんな私が愛してやまない、世界一安心する、ゆりかごみたいなグルーヴ感の文体があります。13年前に出会った、小児科医の松田道雄先生の著作『育児の百科』。妊娠から出産、そして新生児から児童期までの育児に関するありとあらゆる指南が、細かく項目分けされて、とても丁寧に分かりやすく書かれている本です。

初版が50年以上前なので、医学的な情報に関しては古い部分もありますが、育児中にぶつかる壁や不安に感じる部分というのは、今も昔もさして変わらないようで、月齢ごとに出会うあらゆる不安に対して、「これはこういうことだから、こうしておけば問題ない、何も気に病むことはない」と、凛々しい文体で明確な道を示してくれます。そして「そんなささいなことでふさぎ込むな。見なさい、あなたの子は今、元気に笑っているではないか」という具合に、怯えて締め切っていた心のカーテンを、さあっと開け放ってくれるのです。
びしっと言い切る文体なのに、少しも威圧的に感じないのは、小児科医として未熟な母子の心身を守ろうとする温かな使命感が、文章全体に満ちているからでしょう。
初めての育児で、何一つ失敗したくないのに何が正しいのか分からず、毎日何もかも不正解を選んでいるように思えていたとき、この本を読んで、文体の力強さと包容力に、どれだけ救われたことか。

私がもっとも心を打たれたのは、「11カ月から満1歳まで」の章の一番最後にあった、「お誕生日ばんざい」という文章でした。以下に、その一部を引用します。

1年をふりかえって、母親の心にもっともふかくきざみこまれたことは、この子にはこの子の個性があるということにちがいない。その個性を世界じゅうでいちばんよく知っているのは、自分をおいてほかにないという自信も生まれたと思う。その自信をいちばん大切にしてほしい。
人間は自分の生命を生きるのだ。いきいきと、楽しく生きるのだ。生命をくみたてる個々の特徴、たとえば小食、たとえばたんがたまりやすい、がどうあろうと、生命をいきいきと楽しく生かすことに支障がなければ、意に介することはない。小食をなおすために生きるな、たんをとるために生きるな。

松田道雄著『[定本]育児の百科』432ページ「お誕生日ばんざい」

子どもたちが中学生と小学生になった今改めて読んでも、ぐっとこみ上げてくるものがあります。初めてこの文章を読んだときは、おろおろ泣きました。文章に抱きしめてもらったように感じました。

この人の文体で書かれたものをもっと読んでみたいと思い、『私は赤ちゃん』と『私は二歳』も買いました。読んだのが10年近く前なので、もうあまり内容は覚えていないのですが、赤ちゃんや二才の視点から見た世界が書かれており、機知に富んでいて、そして何より、文体のグルーヴ感に酔いしれました。

数日前、大学時代の友人と数年ぶりに電話で話し『育児の百科』のことが話題に上がり、久しぶりにこの本を開いたら、どのページを読んでも、使い古した毛布のように心地よくて、この記事を書きたくなりました。