秀村祐二のプロフィール(というか半生)
初めまして。秀村祐二(ひでむらゆうじ)と申します。
私がどのようにして生きてきたかと、今何を考えているのかを綴らせていただきます。
三万文字ぐらいあります。。。お時間がある時にどうぞ。^^;
▼そんな時間ない!という方は、こちらから。
▼仕事人としての私のプロフィールはこちらです。
秀村祐二
1982年12月生まれ
神戸市須磨区出身
B型・いて座
最近はグランピングに関わりたい・・・!
好きな事:
特技:
仕事
最近の信念(2022年)
最近嬉しかったこと
以前独立支援をしたインフルエンサーのクライアントさんから、久しぶりにメッセージをいただいて、「本当に自由に生活できるようになって嬉しいです!」という報告をもらった時、本当に嬉しかった。
ドイツで過ごした幼少期(8歳~9歳の一年間)
別にドイツ生まれでもなんでもないのですが、物心がはっきりしてきた頃に、一年間ドイツに滞在した経験は、私の人生に大きな影響を与えていると思います。
生い立ちとしては、1982年神戸に生まれました。
幼稚園の頃から「お墓の中はどうなっているの?」「人の命は地球より重いっていうけど、それは違うと思う」など、変わったことを言っていたらしい・・・。
8歳の時に家族と一緒に当時の西ドイツに渡航。
田舎でのびのびと暮らす。ドイツの現地校に通っていたため言葉はちんぷんかんぷん。その中でも楽しくやっていく術を身に着けていったのでしょう。学校では唯一のアジア人だったため、注目されていたようです。
9歳(小学校3年生の夏休み明け)の時に帰国。毎日のように居残り組で、泣きながら漢字の特訓をさせられる。(担任の先生の熱い想いでした。感謝です。)また、日本の学校では夏休みに宿題があることに驚き悲嘆。
教育に問題があるんじゃないか?と、幼いながらに思いました。(自分に不都合なことは社会問題じゃないかと考える癖があったようです・・・^^; )
小学校高学年は、ひたすら塾に通っていたことしか覚えていません。この頃から、学校のテストは目をつぶっていても満点が取れるようになり「秀才ひでさん」の称号を与えられます。
一方塾では完全な落ちこぼれ。このころから、小学校では秀才な自分を、塾では劣等生の少しやんちゃな自分を、親の前ではいい子を演じることとなりました。二重人格の自分が少し嫌だったことを覚えています。
日陰を歩んだ中学・高校時代
中高一貫の進学校に進学。男子校でした。
成績的にはもろに落ちこぼれとなるものの、ここで「劣等生」としてのアイデンティティを確立することができたため小学校時代よりは居心地が良かったです。進んで問題を起こすこともなく、まぁ素行は標準的な生徒でした。時々無断で学校さぼってましたが・・・。
ただ単に成績がとにかく悪かった。どのくらい悪いかっていうと・・・、学年の下から数えて2番目程度。
卓球部に入り、趣味はゲームと漫画というオタクのお手本のような生活スタイル。でも特にアニメ等に興味はありませんでした。
(ちなみに卓球は今でも楽しみながらやってます!卓球趣味の人、いっしょにピンポンやりましょう~。)
伸長の低さには大きなコンプレックスがあり(前から2番目)、強くなりたいと望み続けていた期間でもあります。愛読書は『今日から俺は』。
我ながら、絶対強くなさそう&モテなさそうな顔つきをしております。
中学2年生のある日、クリスチャンである親の勧めで教会に行くと、なななななんと女の子がいた!というわけで、教会に足を運ぶようになります。(礼拝にはあまり出ていなかった・・・)
その時の自分の人生の中で、女性と交わる場と言えば唯一その場しかなかったのです。
そこで私は初恋を経験します。ただ、シャイだった私は交換日記を申し込むのが精いっぱい。そして彼女はなんと快諾してくれた!最後まで手をつなぐこともなかったけど、誠心誠意、真正面からぶつかってきてくれた。Mちゃん、本当に本当にありがとう。今の私がいるのは、この交換日記があったからと言っても過言ではないでしょう。
中高生の間もずっと、両親は尊敬し続けていました。今もずっと。こういうパターンは割と珍しいみたいで、そこは本当にラッキーだったと思います。
ただ、特に華やかなことも何もなく、私にとってはどちらかと言えば「日陰」の時代というイメージです。
この頃から、放浪癖があったような気がします。
ふらりとどこかに行くのが好きなんですよね。
時々学校をさぼって淡路島を自転車で駆け巡ったりしていました・・・。
40ヵ国を旅した大学時代
高校2年生から頑張って勉強をして、何とか大学に合格。選んだ基準は「芝生があったから」。
大学入学時点では、私のコンプレックスは最高潮に達していたのではないかと思います。
無駄に自分を大きく見せようとして、かなり痛いヤツになっていたと思います。
日本人に相手にされなかった私は英語を頑張って勉強し始めました。一日14時間勉強した日もありました。
その甲斐あってか、なんとかカタコトの英語は話せるようになり、留学生と仲良くなることができました。
大学2年生の夏から1年休学して、世界放浪の旅へ。
教育社会学を専攻していたので、「教育の研究」という大義名分を背負って、26校の教育施設を視察。
1年40ヵ国の旅は、ここだけではなかなか語りつくせない想い出が色々あります。
いい旅ができたと思います。
壮大な自然も感じることができました。
旅は総じて色んな経験値をUPさせるものだと確信しております。
ここで私はとあるウクライナ人に恋をして、付き合い始めます。
・・・そして数カ月ですぐにフラれて、4年間彼女のことを思い出しては泣いていました。泣く時間があまりにも非生産的だと思ったため、彼女の事を思い出したらロシア語を勉強するというペナルティを自分自身に課していました。
実態は放浪でしたが、大義名分は教育施設の訪問でした。
ある友人との再会
旅の途中、私はエストニアで、ある友人との再会を果たします。
この人、マリナ=コルビナ・・・、とにかくスーパーすごい人です。
知り合ったのは日本で知り合ったのですが、その時はあまり話すことができなかったので、エストニアで再会した時に色々話すことができました。
16歳の時にモデルとして海外(アジア)に渡航し、ひと夏100万円を稼いでいたらしい。(その時私と出会った)
再会した時、彼女は17歳でした。
まず、彼女は7カ国語を操ることができるということに驚きました。そして、エストニアで一番良い高校で、いつもトップの成績を取っているということも分かりました。
それまでは心のどこかで「モデルはいいよな。顔が良ければ、色んないいことがあるんだもんな」とかなんとか、自分の小さなプライドを守るためにそう考えていた私にとってはなんとなくショックでした。
でも、それだけではありません。
バレーボールも全国で優勝。そしてキャプテン。
さらには準ミス・エストニアも受賞。
そんな彼女は「将来は、医者になりたいの」と言う。
美貌と、頭脳と、スポーツと。。。性格もめっちゃいい。
ずるいよ神さん。一人の人にそんなに全てを与えるなんて。。。
彼女と一緒に高校に行く時、通学路で「昨日は何してたの?」と聞くと、
・・・みたいな答えが返ってきます。
もう、悔しいとかそんなレベルは通り越して、彼女は天才で雲の上の人としか思えませんでした。
私は何とか、
「・・・高校生なのに、そんな世界と繋がってるなんてすごいね」
と言うので精いっぱいでした。
マリナは「私だって、周りの高校生とは、こんな話ができないわ。だからYujiが来てくれて楽しい。あなたもインターナショナルでしょう。」と言ってくれた。
「オレはただ単に英語が話せるだけなんだよ。しかもカタコトだぜ?それだって、もう精一杯、死ぬ思いをして頑張ったんだ。しかも君は、僕の4つ下の高校生じゃないか。」
そう言うと、彼女はしばらく考えてこう言ったのです。
「確かに、私もそうね。最初は英語が話せるだけだった気がする。でも、それがきっかけで世界が広がったわ」
ということらしいです。
私は彼女に、どうやって英語を勉強したのか聞いてみました。
「どうやって・・・?そうね、じゃああなたにロシア語を教えてあげるわ」
と思ったのですが、天才の世界を垣間見るのも良いかもしれないと思い、お願いすることにしました。
彼女自身も自分の勉強で忙しいのに、合間を縫って教えてくれたのです。。。
彼女の指導法は、メチャメチャ本質的で分かりやすかった。
っていうか、私が学校で学んだり、独学でやってきた方法とは真逆でした。
半年後、
・・・私はロシア語を話せるようになっていました。
こんな短期間で学べるの?語学って?
という、誰も知らない秘密を知ったみたいで嬉しかったのを覚えています。
帰国後、この学習方法を軸にして、英語、スペイン語、ドイツ語を学び、話せるようになりました。
これが現在の英会話コーチングサービスを立てる原点になっています。
2022年2月からは中国語を頑張っています。
ちなみに、この話は漫画にもなっているのでご興味あればどうぞ。笑
さて、話をエストニアに戻します。
ある夜に彼女が私の部屋に入ってきて、こう切り出したのです。
「ちょっと相談事があるんだけど、良いかしら?」
訊くと、なんと彼女・・・、
「自分は何もできない」
と思っていたんだそうです。
・・・はい?????
何を言っているんだあなたは。
全国で一番頭が良い高校生で、
全国で一番バレーがうまくて、
ひと夏のバイトで海外で100万円稼いで、
おまけにミス・エストニアだぞ??準だか何だか知らんが。
あ、ついでに7カ国語話せるんだっけ。
しかも君はいつも自信にあふれた笑顔で人を勇気づけているじゃないか!
と、もちろんそう思ったのですが、それは飲み込んで話を聞くと、
「そりゃ、客観的に見れば、色々良いところもあるのかもしれないけど、私は何もできないと感じるの。
Yuji、あなたはすごいわ。人を楽しませる会話ができる。ユーモアのセンスがある。あと、教育に情熱を持っていて、何十か国も回って教育施設の研究をしているわ。料理だって作れる。ピアノだって弾ける。なんていうの、生き方がビューティフル?あなたという人間は、幸せに生きるために必要なものを知っていて、それをどこからか調達するための情熱や才能、そして努力することができるわ。」
まぁ良くここまで、他人の良いことを見つけることができたもんだ。。。
「いや、オレは・・・」
「・・・あと、こうやって悩み事を相談したいって気持ちにさせてくれる才能があるわ。Yujiは自分に対する評価が低いのかもしれないけど、私はあなたをとても尊敬しているの。そして、こんな私の悩み、誰にも言えないわ。みんなから嫌味だって思われちゃう。」
こんなにすごい人が、自分を尊敬しているなんて。
・・・とも思ったのですが、一番衝撃だったのは、
「こんなすごい人でも、こんな悩みを抱えているんだ」
ということでした。
正直、そのあとどんな話をしたかははっきりとは覚えていませんが、
彼女が涙ぐみながら話し、その話を聞き、
すごい人にはすごい人なりの悩みがあると知り、
その痛みを感じ、彼女の人間を少し深く知れた。
そんな、とても人間的な時間でした。
成長し続ける人は、すごい人達を目の当たりにするから、レベルの高い悩みが出てくるんだな。
さすがだよ、Mさん。
オレも少しは見習いたいよ。
オレも「幸せになるための努力をし続ける姿勢を怠らない」のは、誇りが持てるかもしれないな。
とまぁ、こんな感じで、彼女との再会は私がコンプレックスを解消する一つの大きなきっかけとなり、
私の現在の英会話コーチングサービスの原点ともなった人です。
・・・今思えば、やはり彼女は天才だったのです。人間関係をしっかりと築く、という側面でも。
「何か自己開示ができていない部分がある」と感じ、そこをストレートに表現するのは、人間できてないとなかなか難しい気がします。
今でも関わりがある、大事な友人です。
このような、素晴らしい人との出会いが私を徐々に変えていき、私は日本に帰国します。
帰国してからの集中モード
帰国した時点での私のマインドセットは出発前と比べて大きく変わっていたように思います。
まず、勉強が楽しいと思うようになりました。
色んな人との出会いと支えの中で私のコンプレックスは薄まり、
物事の色んなことに興味がわき、
本当に頭が良い人や、本当の天才に出会うことで「こうなりたい」と思うと同時に謙虚になることができ、
自分を高めるために意識を集中することができました。
勉強法についても、多くを教えてくれた人達のささえのおかげで効率よく進めることができ、本業の社会学の他にも、ネイティブレベルの英語の習得や、ドイツ語・ロシア語・スペイン語の習得もすることができました。
同時期、平日は千葉でインターンシップをしていました。
土日は神戸でバイトと大学で教授と打ち合わせ。
月~金は千葉でインターン、卒論執筆は夜行バスの中。
・・・という、今考えるとあまり再現したくないライフスタイルでした。笑
それでも身がなんとか持ったのは、やっていることが本当に楽しかったからなのだと思います。出来上がった卒業論文がこれ。
論文の内容は、小学生の頃から疑問に思い続けてきた教育。
教育をどのように行うかという「教育学」ではなく、移り行く社会における教育の定義と位置づけが何なのか。それが人の幸せにどのように貢献するのか。それらのヒントを、私が大好きな「体験学習」などの要因を包括している寺子屋教育、シュタイナー教育、そして山村留学といった教育システムの事例を参考にしながら参考にすればいいんじゃね?!・・・という論文です。(すみません、興味があることになると息継ぎなくしゃべってしまう癖が・・・^^; )
同じ分野に興味がある!という人がもしいたら、ぜひお会いしてお話したいと思います。
ちなみに、ガチ勢の方はここをクリックすれば、私が21歳の時に書いた論文のダウンロードが始まります。70ページぐらいの論文です。
英語で書いたのが良かったのか、実際の視察の量の多さが認められたのか、審査員のダーツがたまたま私の出席番号に当たったのかは分かりませんが、学部内で銀賞を取ることができました。まぁせいぜい学部生の論文なので残念ながら価値はあまり無いのですが、その当時の私にとっては大きな功績でした。笑
努力が報われたような気持になり、本当に嬉しかったです。
ただこれを通じて、少なくとも「私の考えを一つにまとめ、体現する」という訓練ができたといいうことは私の人生において非常に大きな学びだったと思います。
同時期BMWでのインターンシップを経て、ビジネスの基本的な事について学び、修了。
論文でも、仕事でも努力が認められたみたいで、本当にうれしかったです。
就活はある意味怖いものなしでした。BMWでのインターンシップと卒論優秀賞、世界旅行を印籠にして、色々な候補の中から最終的に決めたのはRグループ社。ここに塾講師の新卒として入社しました。
ブラックカルト企業からのボストン就活
Rグループという会社に塾講師として入社。ここで私は自分の理想と現実のギャップに非常に苦しめられます。
この会社は、WHOの定義によると「カルト」に当てはまる感じの集団です。
私は必ずしもカルト=悪と思っているわけではないのですが、少なくとも私はここに属している間、幸せな生活を送ることが非常に困難となりました。
会社独自の明文化された経典(『実現論』と呼んでいる)があるのですが、これがある種独特の雰囲気を醸し出しています。その経典の一例を紹介すると、
というものです。
その会社はR塾という塾を展開しており、私は塾講師をしていたのですが、子供たち相手にまともな授業を行っている時が一番幸せでした。
でもその他はまあ、、、私は耐えられませんでしたね。私と価値観が全く違いましたから。平均週110時間の勤務の中、電車の中でつり革につかまりながら、「オレの未来はないな」と悲嘆にくれる毎日。
土日に、通勤電車の中から見る光景で、みんながサッカーやらバーベキューやらするのを見て「いいなぁ・・・!!こういうのができたら最高だろうなぁ・・・!」と思っていました。
そんな中、GWになんと4日間の連休がもらえたのです。3月から働き始めていたので、実に2カ月ぶりの、24時間以上の休み。嬉しかったですね。大学時代からの友人と、全てを忘れるために岡山県の真鍋島に旅に出ました。
休日が空けて出社。行きの電車の中で、頭が真っ白になり、腹部に強烈な痛みを感じたのです。
「こ・・・・、これがひょっとして適応障害というやつなのか!?本当にこうやって感じるものなんだ。このままでは、オレの人生はダメになる」
そう思い、転職会社に登録したのですが、とにかく転職活動する時間がない。しかも、転職会社の人は「オレは世界を股にかけた仕事をしたいんです」というのを戯言として鼻で笑う始末。
あるエージェントさんは「あのね秀村さん、プロ野球選手になりたいと思っても、実力がないと難しいですよね・・・?分かりますよね?」と、子供をあやすように語りかけられたのでした。
そりゃそうだよな、何も能力のない塾講師ごときが何を言っているんだろう。
かなり病んでいた私がそう思いかけた時、私は素晴らしい人に出会ったのです。
Oさんという、転職会社のエージェントの方でした。
彼は、私がのたまう「世界を股にかけたいんです!」という言葉の意味はどういうことなのか、何がしたいのか、どういう方向に進みたいのかを丁寧に聴いてくれました。そして彼はこう言ってくれたのです。
「辞めることによって履歴書に穴が開くリスクよりも、転職活動が非常にし辛く、良い案件を逃すリスクの方が圧倒的に高い。職は必ず見つかります。時間を投資しましょう。」
私はOさんのアドバイスに従い、まず会社を辞めるという決断を下し、就職活動を始めました。もう、あれですね。会社を辞めてから頭のモヤがスッと晴れたようになり、色々自由に物事を考え始めるようになりました。
今思えば、痛感します。「行わなかったことで失われる投資は計り知れない」と。この時間を投資して、本当に良かったと思います。
アメリカのボストンまで行って就活をしました。
で、ここでも心が折れまくります。だってこんな会話が聞こえてくるんですよ。
「MBA持ってても、やっぱりあんまり通用しねーよなー」
「分かるわー。この前CPA取ったんだけど、それでやっと土俵って感じ?」
・・・はい?
オレマジ何も持ってねぇ。やべぇ。
心が折れながらもなんとか切り替えて、とにかくひたすら面接を受けまくりました。で、当然落ちまくるオレ。
でも失敗しても続けてみるものですね。結果、この場で数社アメリカの会社の内定を数社いただきました。嬉しかったー!
意気揚々と帰国。その後大手楽器メーカーであるY社への内定をいただくことができました。
旅費は主に通訳バイトで稼いでいました。
Oさんに相談したところ、Y社はOさんを通じての会社でもなかったのに「いやーY社はいいと思いますよ?」と、自らの営業成績も顧みず、私の人生にとってもっともベストだと思うところを推していただき、第二新卒としての入社を決意したのです。
人生観を変えたチリでの出来事
Y社に入社するまでの半年間、私は色々ぷらぷらしていたのですが、そのうち3週間はチリとアルゼンチンを旅行していました。
ここで私はある衝撃的な体験をします。
チリでは、子供たちが観光客を見つけると「お金ちょうだい!」と言ってくるのです。私は最初「お金は持ってないんだ」と言い続けていたのですが・・・、ある日そんな自分が嫌になったのです。次は嘘はつくまい。そう思って、宿から出るとやってきました。「お金ちょうだい!」「お金はあるけど・・・、あげたくないんだ。」
そのセリフを聴いて凍り付く子供たち。チリの人々はとても人懐っこく、こんな拒絶を前面に出したセリフなどあまり言われないのでしょう。
慌てて付け足しました。「えーと、でも時間ならあげるよ。あと、脳みそ。」
子供は聞いてきます。「えー、時間と脳みそで何するの?」
「そうだなぁー・・・、お金を作ろう!」
「どうやってー??」
言われて考えました。
「・・・そうだな、日本語で人の名前を書いて、お金をもらおう。」
そんなやり取りをしているうちにワラワラと集まってくる子供たち。みんなで一緒に文房具屋さんに行って、紙を買いました。
その後、街の大通りに行って、私は言ったのです。
「オレは、日本から来た正真正銘の日本人だ。筆ペンで名前を書いて、その意味まで教える。一人2ドルだ。君たちの仕事は、お客さんを捕まえてくることだ。」
私のスペイン語は本当にベーシックなので、こんな格好いいセリフは言えませんでしたが、それでも理解してくれた子供たち。わーっと出て行って・・・、あっという間に3人のおばちゃんを捕まえてきました。
おばちゃん、私を見るなり「あらら!本当だったのかい、この子達が言ったことは。是非お願いするわ。」
幸先のいいことに、名前はマリア。「真理愛」と書いて意味を説明すると、満面の笑み。「私の名前は、ホンモノの愛という意味なのね!!自慢しなくっちゃ」
いそいそと出て行っていく彼女。その後・・・、気づけば私の前には行列ができていたのです。
2時間の後、売上はなんと60ドル。
子供たちは目を丸くして「こんな大金見たことねーーー!!」と盛り上がっていました。当時その村の日給は良くて6ドルくらいだったので、当然のことだったかもしれません。(5ドルでプール付きのホテルに泊まることができました。)私達の感覚で言うと、小学生が10万円を見る感覚なんでしょうかね。
「さ、5人いるから、こいつを5人で山分けにしよう。」
そう提案をしたら、こんな答えが返ってきたのです。
「いやいや、Yujiがビジネスを考えたんだから、Yujiの取り分が半分でしょ!」
お、お前たち・・・・・・。最初はただ単にオレのカネが欲しかっただけじゃないのか。
お互いの譲り合いの会話が続いた末、「じゃ、オレを入れた6人で山分けにしよう」と言って、一人10ドルの取り分に決定。
なんというか、仲間意識といか、思いやりというか、そういうのを感じることができた瞬間でした。
「その場に価値を生み出すのがこんなに楽しいことなんだ」という原体験です。
もう一つ、私の人生に転機を与えた国でもあります。それは、SamとNicoleというとっても素敵なカップルに出会い、彼らから「Couchsurfing」というサイトを教えてもらったことです。これは半年後から大きな影響を及ぼします。
チリは他にも、道端で出会った人と旅行に行ったり、かなりランダムなことがあったのですが、そんなチリ旅行も終えて帰国後、すぐにY社に入社。研修場所は浜松でした。
入社、すごすぎる同期達
みっともない話なのですが、私はY社入社直後、とても得意な気分だったのです。なぜなら私のY社に対するイメージは、旧体質の安月給の日本企業。
「アメリカまで行って就活なんかしたやつなんていないだろう」「五か国語しゃべれるやつなんていないだろう」「大学時代40か国回って、卒論を英語で書いて優秀賞取ったやつなんていないだろう」という完全な上から目線ぶり。
ですが、そんな小さなプライドは瞬く間に打ち砕かれることとなります。なぜなら、同期が凄まじく格好い・・・!!
大学時代にバンドを立ち上げて売上1000万以上だしたヤツ。東大理IIIの大学院を卒業して「波の研究」とか?をしたのに、「音楽が好きだから」とこの会社を選んだヤツ。グアテマラに在住後日本に戻り、弾き語りを路上で始め、とにかくトークがうまいヤツ。
自分がやってきたことなど、何もすごくないと思いました。世界40か国をバックパック?そんなのチケット代払えば誰でもできるし。卒論で優秀賞?優秀であることは確かに悪くはないんだけど、オレが尊敬するような「スゴイ」ことじゃないんだよ。バンド立ち上げて1000万売上に比べたらしょぼすぎる。
で、入社直後の研修で「訪問販売」的なやつがあったのですが、周りがそんな感じだったので、私はどうにか自分の存在感を表したいと思い、あの手この手を試した結果、色んな縁もあり、運よく個人戦で優勝することができたのです。
あぁ、ここでまた守られてしまう小さなプライド。さっさと打ち砕いていた方が良かったかもしれません。そこまで誇りに思える実績ではないですけど、他に見せる実績もないという悲しさ。(とはいっても、その後の異動に影響を与えているかもしれないので、これはこれで良かったのかもしれません。)
でも、私がこの会社で働き続けることができたのは、やっぱり人だったんだと実感しています。素晴らしい人達に囲まれて過ごすことができました。
その後は、ピアノ工場で大好きなピアノを作る仕事の一部を少しだけさせてもらいました。
浜松にて三ヵ月の研修が終わり、私は東京池袋勤務となります。
ホワイト企業暗黒期
さて、東京池袋勤務となった私。私の人生では暗黒期です。
立場は「出向」で、Y社の子会社であるNT社に勤務。
東京に住むのは初めてでしたから、なんとなく「得した」気分でした。ですが、そこで待っていたのは絶望。それもそのはず、私は典型以下のウルトラ仕事できないダメ社員だったのです。
まず、二日目で遅刻。まぁ可愛いもんだ。
そして、本社で開催される研修を見事すっぽか。
ま、まぁ可愛い・・・もんだ?
そしてその研修を頭を下げて再度予約してもらったのですが・・・、まさかのすっぽか。マジでか、ありえん!!!!!
こっぴどく叱られました。ってか自分何やってんだろう本当、ダメだよこりゃ。二度繰り返すのは。
で、再度予約してもらったのですが・・・・・
ありえます?こんなこと。
まさかの三度目すっぽかですよ。
この時はさすがに自分に失望しましたね。マジで何やってるんだと。
謝罪文を書こうと思ってGoogle検索をかけたら「自分に愛想を尽かしてしまいます」みたいな例文が出てきて、これ謝罪文じゃなくてまんまその通りだと思いましたよ。
スケジュール帳には書いていた、書いていたんですよ。ただその・・・、スケジュール帳を見る習慣がなかったっていう、そこですね。いや、何の言い訳もできませんよこりゃ。ただ自分に失望することしかできません。
まぁそんな幸先の悪いスタートを切ったのですが、もらう仕事にことごとくミスが多く、そんな状態なので仕事も任せてもらえない、上司には迷惑をかける、もう本当お手上げ状態ですよ。
毎朝青白い顔をして出社する私に対して本当に優しく接してくださった方々、特にSさんDさんYさん本当にありがとう。
あまりにも使えないので異例の半年異動。
それまでは音楽教室の受付だったのですが、楽器売り場の鍵盤楽器販売へと異動となったのです。
鍵盤楽器はY社の花形商品なので、その楽器売り場となるともう花形。今思えば、典型以下ダメ社員がなんでこんなところに異動になったんでしょう??
さて、ここで私はYチーフという、情熱にあふれたチーフに愛のこもったご指導をたっぷりといただくこととなりました。毎日腹が痛かった。でも、社会人としての基礎をばっちりと鍛えていただき、社会人として最も成長することのできた場所でした。
自己啓発本も普段から読んでいらっしゃる方で、社内ではスターの位置づけ。そんな彼の元に送り込まれたのは、ラッキーでした。
ここでも数えきれないほどのミスと間違いと社会人としてあるまじき行為を繰り返した私ですが、それでも日々努力に努力を積み重ねようと頑張っていました。ダメ社員っぷりはどうしようもありませんでしたが。
自分に失望すること数知れず。ただ這い続けました。時には迷惑をかけすぎて「お前は一週間店頭に立つな」と言われたことも。
しかし、そんな私に本当に大きな情熱をもって接してくれた上司と同僚の協力により、社内コンペでの売り上げ成績は二位を取ることができました。これは本当に嬉しかった。だってダメ社員だったもの。
あたかも自分の功績のように見えるのですが、はっきり言ってこれ、Yチーフの力です、実質。こんなに色々考えてビシバシ指導してくれる人なんて、そうそういないんじゃないか・・・?
そんなこんなで、約2年間が経ち、私に本社浜松への辞令が出されます。異動先は「アジア・パシフィック営業本部」。
嬉しかったですね。ずっと海外とのつながりを持つ仕事を待ち焦がれていましたから。
東京を離れる時、職場の人達がアルバムを作ってくれました。これは本当に、本当に嬉しかったです。コメントの内容が・・・、なんというか、「秀村さんはユニークすぎて、正直私には意味不明なことも多かったけど、熱意に押されて頑張ってきたつもりだよ」と言ってくれた上司を始め、本当に忌憚なき暖かい言葉に満ち溢れていて、それは嬉しかったです。
ありがとう、Yさん、Sさん、Sさん。人生における三大天使です。
あ。この期間のプライベートのことを全然話していませんでしたね。結構ユニークなことをしていたと思います。それは、Couchsurfingというサイトに登録して・・・、外国人を家に泊めていたということです。
まぁそれも尋常な量ではない。2年間で、実に3000人をタダで泊めたのです。ホステル状態ですなこれは。
しかも、タダで宿を提供しているので、みんなから「ありがとう!」と言われる毎日。
色んなタイプの人達がいました。
自分が中心にならざるを得ないこの空間で、私は会社の忙しさに忙殺されながらも、色んな事を自然と経験することができたと思います。
だって、私に良い印象(タダ宿提供者)を持ってくれている人3000人ですよ。
色んな人がいました。
この経験だけでも本が一冊書けるくらい。
また別の機会に書くことにします。
この人達がいたからこそ、私は鬱にならなくて済んだのかもしれません。マジで絵に描いたようなダメ社員だったので・・・。
さて、2年間滞在の後東京を離れて、本社浜松へ帰任です。
憧れの海外事業
帰任辞令を出た時、私は笑顔を隠し切れませんでした。「復職 アジア・パシフィック海外事業部転勤を命ず」みたいな事が書いてあったと思います。
私が一番行きたいと思っていたところでした。
理由は、、、「とにかく海外!」と思っていたのが一番大きいですが、その中でも勢いとエネルギーがある感じの部署がそこだったからです。市場が常に変化して、色んな言葉が飛び交って。楽しそうじゃないですか。
しかしそんなことより、私は自分が住むことのできるマンションが嬉しすぎたのです。だって、マンションからは湖が一望できて、プールとジムがついてるんっすよ!どうです浜松パワー!家賃8万円也!(会社から家賃補助が7割くらい入るのでもっと安かった)
・・・と喜んでいる自分に気づいた時、
「あぁ~オレはきっとバリバリ仕事をするとか、そういう方向には向かないのかも・・・」
と思った記憶があります。
実際、仕事に本当に知恵と労力と時間をこれでもかっ!という程費やしている人たちを見てきた私としては、戦意喪失と言ったところが正しいでしょうか。笑
なんて言うんでしょう?「ここを!こうしたら!売り上げがもっと伸びるのに!でも、この部分が問題だからな~!あぁ~これをなんとかしたいな~!!!」・・・みたいに、全っ然ならないんですよね。
「あー今月売り上げ目標はクリアできないなーこれは。原因何かなー。競合のイベントがあったのと、あとは近年の市場全体の消費者が使った金額と照らし合わせるとまぁ仕方ないレベルかなー」
・・・くらいにしか思えないのです。そう。当事者意識が持てない。
これ、持てる人は心から尊敬します。
でも周り見ると「売り上げ売り上げー!うぉー!」っていう人ほとんどだし。え、オレ病気なんですかね。
もちろん、どうすれば良くなるかは考えますし、提案もしますよ。(提案の数だけなら部署内一だったと思います。まぁ、みんながドン引きするような提案も中には多く含まれていましたが・・・その中の一つはかなり評価されて嬉しかったです。)
でも、仕事全体としては本当に楽しかったです。
海外出張者の調整・アテンドとか、国際会議の手配とか、製造・販売・在庫台数の年間売り上げ予測だと月別の現地法人との調整か、そんなことをやってました。
アメリカに出張して音楽関係の世界最大のトレードーショーみたいなのに行って、最新の競合の商品を触ってみたり。
東南アジアの市場調査に行ったり。
そう、仕事は楽しかったのです。毎月なんらかの楽しいイベントもありましたし。
大学生の自分が見たら「おおぉなんだかすごそう」とさぞ思っていたことでしょうが、多分ちゃんと教われば誰でもできる仕事だったと思います。
業務内容はメールやら電話やらはほぼ全て英語。
よく分からない国(アブハジア?)から電話がかかってきて「おーい秀村ロシア語!」と言われたこととか、時々ですがスペイン語やドイツ語の対応も少し入れることができたりして、悦に入ることができます。笑
海外の現地法人来たスタッフさんの研修だの工場見学だのをするのが週一くらいであって、時には「インドネシアのお客さんが来るから、雪まつりの案内してやってくれ」とか言われたりもしました。
金もらってこんな楽しんでいいんでしょうかっていうくらい楽しかったです。
休みとくっついていたので、友人と小樽観光もできました。^^
・・・こんなに楽しかった仕事の中、唯一しんどかったのは、時々売り上げが行くだの行かないだので、苦しそうなフリをするくらいでしたねー。笑
本当に人気の部署だったのでなぜ新卒2年目のぺーぺーの私が行けたかというと、一言で言うと「戦略と行動」だったと思います。みなさん、行きたい部署への異動の考察に関しては、また別記事を書こうと思います。
さて、そんなある日、私は自炊が面倒くさかったので、近くにあるオーガニックカレーライス屋さんに行くことにしました。そこでの出会いが私の浜松ライフに大きな影響をもたらすことになります。
男女観を得たサルサとの出会い
私がおひとり様でカレー屋に入ると、お姉さま方(恐らくアラフォー)の方が2名座っていらっしゃいました。
すると、自然発生的に会話が始まるわけですよ。(いきさつは忘れましたが、アレな性格をしている私が話しかけたんだと思います)
で、会話の途中でこんなことを訊かれたんです。
「あ、浜松にいらっしゃったばっかりなんですね。良かったらサルサダンスしてみますー?」
ダンス。
おおよそそれは、私が人生で関わったこともなければ、関わろうと思ったこともないジャンルのものでした。
特に魅力を感じることもないまま、それでも暇だった私は(←失礼)一度レッスンを見に行くことにしたのでした。
仕事が終わった火曜日の夜8時、Salsa Fuegoというサルササークルみたいなものが主催している、Emporio Cafeというところに行ってみると、そこにはなんと、40名くらいの男女が手を取り合って踊っていたのです。
「はい、次ー!」
というインストラクターの声に従って、男女ペアを入れ替わる皆様。「初めましてー」と言いながら手をつないで、ダンスを習う若い男女。
スキンシップがタブー視されている日本でこんな光景が見ることになろうとは!
そこで私は、チリで味わった苦いひと時を思い出したのです。
***ここから回想シーン***
2007年、24歳。私は、数人の男女と一緒だった。
一人の女性は、迷子になった私(アメリカに行くつもりが南米についた)に親切にスペイン語を教えてくれた人。
そして、彼女の友達。「せっかくチリに来たんだから、こいつを楽しんでいきなよー!ダンスを!」と言って、私はクラブに連れられたのだった。
クラブなんて、人生で数えるほどしか行ったことがなかった。 薄暗い照明の中、腹まで響き渡る振動。少し怪しげな臭いまでしてくる。(多分マリファナ)確かに南米だからな・・・。どどどどどうしよう。
そんなことを思っていると、 「ハロー!一緒に踊りましょう?」 と、なんと南米美女が笑顔でダンスに誘ってくれるではないか!
マジでかっ。
アナタはオレに声をかけてくるなんてそんな奇怪な趣味をお持ちなのか!
ここに連れてきてもらって良かったぜ!!
と、嬉々としながら手を引かれてダンスフロアへ。
美女に手をにぎにぎされてるだけでもう既に楽しくてたまらなかったのだが、、、
1分程すると、女子が苦笑いをしているではないか。
「あら?あなたひょっとして踊り方知らないの?」
「うん!知らない!」
「そうなのね~(がっかり)」
その後も若干盛り上がりに欠ける感じで、その美女は去っていった。
ん・・・?
がっかりされた?? ま、他にイケメンな人でも見つけたんでしょ~。
そして、またぼんやりしていると今度は別の美女が! 「ヘイ、ゴージャス。私と踊らない?」
マジかっ!
ここではひょっとしてアジアンがモテモテなのか!
そうなのか!そうなんですか先生!!!
という勢いで、喜び勇んでダンスフロアに行く私。
しかし、、、 にぎにぎデレデレしながら踊って1分程すると
「ね、お話はもういいから踊らない??」
「えっ。いや、、、踊り方知らないんだ。」
「・・・???どういう意味?じゃ、またね~」
なんと!!どういうことだ?? 女性たちは本当に踊りを楽しみたいのか?? そこで、クラブに連れて行ってくれた女性に訊くことにした。
「ねぇねぇ、ひょっとして踊れないのって良くないの?」
その女の子は言った。
「踊れないってどういうことよw 音楽に合わせて、体動かすだけじゃなーいw」
「え、いや、まぁそうなんだけどさ・・・」
そうだよな。だってみんな楽しそうに踊ってるもんな。
オレはニンゲンの本能すら失ってしまったのか。
***回想終わり***
というわけで、私は思ったのです。「今まで向き合ってこなかったダンス。これ、教養として持っておいた方が絶対いい気がする。」
その中でひときわカッコよく踊っている男性を発見。サクさんという人でした。「サクさんみたいに踊れるにはどのくらいかかるんでしょ・・・?」と聞くと「まぁ、三か月頑張ればそれなりに踊れるようになるよ!」とのこと。
マジ!!三か月で???やるっきゃないでしょ!
ということで私はサルサを習い始めることにしたのです。
サルサとは、私の目線からまとめるとこんな感じです。
この三つ目が、なんとも説明しにくいのですが、男性がリードできないと、女性としては何もできないのでダンスが超つまらないと感じてしまうのです。
リード能力がゼロということは、車でたとえれば、アクセルを踏まなければ車が走らないみたいな、そういうレベルで何も起こらないのです。
なので、「女性を誘ってダンスに誘うけど、リードを知らない」というのは、
と言っているようなものなのです。南米女子は、なんだかユニークなアジアンがいるから気軽にドライブに誘ってみたら、運転席に座るのにアクセルどこか分からんのかい!ってなもんです。そりゃ、苦笑いですよね。
(ちなみに南米人はこういうことを幼少期からやっているので、車の運転なんてアクセル踏んでハンドル切るだけじゃないのー!という感覚でモノを言っています)
そういうわけで、私はこのSalsa Fuegoにお世話になることになりました。
後で分かったことなのですが、ここは世界的に見ても素晴らしいコミュニティを形成しているサルサ団体です。東京、大阪、静岡、愛知、メルボルン、シドニー、ニューヨーク、ベルリンと20か所以上のサルサ団体を見た私が言うのだからきっと間違いない。
こんなに暖かくゼロからの初心者を、善意と情熱を持って教えてくれるところはなかなかないと思います。
その中で、私は実に色々なことを学びました。
このコンセプトを体験して、私が思ったのは「・・・男女の関係も、それが当てはまるのかもしれない」ということでした。ただ、5分ではなく人生という期間だけども。
女性にも、もちろんある程度の自由度は与えられています。が、大まかなストーリー構成は、9割がた男性にゆだねられているのです。
そこで私は思い知りました。私がいかに女性のリードをしていなかったか、ということを。
そして、思いました。好きな女性ができたら、決断と責任をもってして、リードさせてもらって、女性に美しく輝いてもらおう。
や、我ながら若干キモいですかね、こういうことを言葉にしちゃうの。でもいーじゃないですか。ちょっとくらいロマンチストになったって。。。
いずれにしても、本当に楽しくて情熱があり、尊敬できるみんなと、この浜松ライフを過ごすことができたのは、一生の思い出です。
ところで、少しだけ会社の方に話を戻しますと、私は尊敬と信頼をしているK君という同期がいたのですが、彼は本当にデキる人間でした。彼はなんだか世の中の動きのこととか、ビジネスとか、社内の人間関係とか、そういうことが分かった上で情熱を持って仕事に取り組む人だったのです。
で、それだけなら他にもそういう人はたくさんいたのですが、彼の場合は何というのでしょう、深い人間性を持っていたというか。話が楽しく、酸いも甘いも知った知識と経験、善意と能力を持って他人に寄り添う・・・そんな感じの人間なのです。今ブラジルにいるらしい。
とまぁ、彼と話をしていた時に、私はこんな事をこぼしていたのです。
「いいよな~Kは。出張とかたくさん行ってるし。」
当時、とにかく海外!!と思っていた私にとって、それはとっても羨ましく見えたのでした。しかし、彼は一考した後、こんな質問を私にしてくれたのでした。
「・・・秀ちゃんは、なんで海外に行きたいの?観光したいってわけでもないでしょ?」
この質問には、本当に考えさせられました。
なんで私は海外に行きたいんだろうか???
とにかく日本を離れたいから?ちょっとした観光ができるから?環境を少し変えることができるから?現地スタッフにちやほやされるから?海外に金を払ってでも行かせる価値がある、ということの証明な気がするから?
どれも、「そういう要素はあるかもしれないけどもなんか違う・・・」という感じでした。
結局、日本にいる間、この疑問は解消しませんでした。
まぁ、あとから振り返ってみれば、別に理由なんていらなかったんですけどね。この記事にそんな内容のことを書いています。
その理由は、私がオーストラリアに駐在することで、ようやく分かることになります。
楽しすぎるオーストラリア駐在
正直オーストラリア駐在生活は楽しすぎでした。
こんなことを書くと、元上司に「おめーは仕事しにオーストラリアに来たんじゃねーのかよ」とか怒られそうです。
(っていうか実際に「遊びに来たんじゃねーぞ」って怒られたことがあります)
実際、最初の1年はかなーり厳しかったです。っていうか、正直舐めていたところがあるのかもしれません。
「大学時代から家庭教師で英語を教え続け、卒論も英語で書き優秀賞を受賞し、卒業後外資系企業でインターンを経て、塾講師でも英語を教えて続けてきて、海外の出張経験もあって、50ヵ国を訪問して、海外の友人がいる。TOEICも900点以上の点数がある。だから大丈夫!!」そう思っていました。
しかし、、、赴任後はもうアレでしたね。ダメ社員に舞い戻った気分というか、ダメ社員以下というか。英語を使ったコミュニケーションをレベルの高いフィールドで使うのには、英語力も英語を使ったコミュニケーション能力も致命的に足りないと実感しました。
なので、「学のある英語」とか「信頼されるような英語」を研究して必死で勉強してました。^^; オーストラリアにいるからと言って、そういう英語を話せる場なんて会社の会議以外ではないので、英語の勉強はほぼねちねち自宅でやってました。日本でしとけば良かったー!
この後悔を元に、前述の英語を教えるサービスを作りましたので、もし興味ある方はどうぞ~。
ちなみに、ここだけの話ですが、駐在員というのはガチで優遇されています。給料の話をすると、正直な話、文字通り桁が違います。
20代で桁違いのサラリーをもらえるっていうのは、なんでしょう、うん、普通に嬉しかったです。
で、配属されたら超絶高級マンションに通され。
ジムも使い放題。
「ここがあなたの部屋だよ」と言われ。
家賃も車代もガス代も携帯代も全て会社持ちで。
・・・これとは【別に】、給与として銀行口座には毎月日本円にすると7桁の金が振り込まれる。
・・・なんだこりゃ?これ、待遇良すぎやろ。と、いくら不真面目な私でも思い始めたのです。
そして、思ったのです。
そんなわけで、私は仕事にかなり精を出し始めたのです。私が注力したのは、仕事のフロー全体の効率化。今まで6時間かかってやってきたことを5秒で済ませることができるようになったりしました。(マクロを組んだりして)
というわけで駐在は体験することができて、本当に良かったです。
なんというか、違う世界が見えるというか・・・?
あと、待遇が良くなる+自分の実際の価値も上がる+ステータス的にも市場価値がかなりあがるので、目指して良かったと思います。
「どうやったら海外駐在できるの?」みたいな相談も、気になったら連絡くださいね。
そして社長のみなさん。
従業員の方々には「ちょっと多すぎなんじゃねーのこれ??」って思うくらいの給料を、騙されたと思って払ってみてください。きっといい仕事をしてくれます。
そんなわけで、2年目からはずいぶん余裕が出てきました。
メルボルン。連続何年か「世界で最も住みたい街No.1」に選ばれ続けているところです。
まず通勤がチャリです。
会社の人達も超ノリノリです。
アフターファイブが本当に充実しているし、友人もアフターファイブがきっちりあるので、友人と遊ぶ時間もたっぷり。
自宅からの景色も申し分ありません。
赴任して半年後の誕生日には、ほとんどの友達が来てくれました。やっぱアフターファイブが確保されてるって最高。
その中でも特に仲良くなったのが、フットサルのチームメイト達・・・!
ここでキャンプの魅力にすっかり取りつかれました。ほぼ毎週キャンプしていた時期もあります。
焚火とか。
山とか。
海とか。最高!!!
自然の中の開放感。
仲の良い仲間たちとの戯れ。
野山をチャリで駆け巡ったりしてました。
本っ当に大好きな友人ができました。一緒にバカができるし、大事な話もできる友人。
今でも、ずっと繋がりがあります。
パーティーはたしなむ程度に楽しんでました。
やんちゃも少しだけしていました。
・・・少しだけですよ。。^^;;
そう、ほ~んの少しだけ。。
ちなみに、写真は別に私がモテモテだったわけではなく・・・、
私の30歳の誕生日の時、友人達に
と言ってみたところ、心優しい友人達が付き合ってくれたものです。
普段はとっても健全な関係でございました。笑
仕事もちゃんとやってましたよ。
実際のところ、仕事は本当、嫌ではありませんでした。
すばらしきオーストラリアの同僚たちにも恵まれました。
本当に素晴らしい駐在生活でした。
社会人の半分以上が海外経験の中、日本に帰任することとなります。
帰国後退職→起業→再びオーストラリアへ
帰国後私は新事業部の立ち上げメンバーの一員として、本社勤務をしました。これはとても楽しかった・・・!執行役員の下、「10年後の未来を考え、計画を立案してください」というのがミッション。これは本当に楽しかった。
そして、今の妻に会いました。^^
実は彼女とはオーストラリアで出会ったのですが、日本に帰って再会してから付き合いをOKしてくれました!いぇーい!
パッと見おしとやかですが、
カメラを向け続けると、
・・・高確率で変顔を披露してくれます。
最近は一層顔芸に磨きがかかってきました。
そんなお茶目な彼女ですが、他にも色んな側面を持っており、
付き合い始めて一週間ぐらいの時に
と言って、その場で二人で最安値のチケットを取り、
二週間後には一緒にモロッコの砂漠の中でキャンプ、というアドベンチャーを共にできる人です。
付き合い始めて三週間でこの景色を一緒に見られたのは、やっぱりこの人だったからなんだろうな。
ちなみに、軽井沢に移住したのも同じ流れです。
完全にノリです。
(一応移住先は、フィリピン・タイ・オーストラリア含めて色々見て回りはしましたが)
さて、私は起業する!!心に固く決めていたのでした。
それはもう、実は入社前から・・・。オーストラリアから帰国して、一応キリが良いところ仕事を終え、退職。
そしてボーダーフリー株式会社を設立します。
・・・と言いたいところですが、そこはゆとりを大切にする私、退職後はとりあえず景子(当時はまだ彼女)と、海外からの友人と2ヵ月程日本を練り歩いていました。笑
とりあえず、歓迎の意を大きく表すことにしました。
総勢7名で日本を練り歩く。
・・・そして、やっと起業します。
司法書士さんに「会社名何にしますか?」と訊かれたのですが、名前がとんと思い浮かばない。そこで、ふと思い出したのです。10年前、私は「起業するぞ!」という恥ずかしいブログを書いていたことを・・・。
↓↓↓
・・・というわけで、社名はボーダーフリー・・・としました。理由は、世の中の障害を取り除きたいという想いと、「国境なき」組織を作りたいと思ったからです。夢は大きくね。笑
でも正直嬉しかったです。10年前に書いたことが、実現した感じがして。
そんな中、理学療法士である景子が、めちゃめちゃ真剣に患者さんにと向き合い続けた結果、ある結論に到達。
身体の予防医療に特化したピラティスを極めることを決意。
というわけで、勤め先の訪問リハビリテーションを辞めます。
ピラティスのコースを探すのですが、これがなんと日本でなかなか適切なものが見つからない。
調べると、理学療法士等の医療知識を持った人しか受講できない医療ピラティススクールがオーストラリアにあると判明。
ということで、またもやオーストラリアに行くことにします。
二度目のオーストラリア(起業1年目)
ビジネスという観点からすると、、、私は本当に何もしなかった一年目でした。笑
したことだけを言うと、まずは出国当日に形だけ株式会社を立ち上げました。オーストラリア行く当日だったので、バックパック持参。
そしてバックパックを持って現れたオレに当惑する司法書士さん。そらそーか。
起業に役立ちそうな本50冊、キャンプに必要なテントと寝袋を送って、オーストラリアで1年間過ごします。
彼女は医療英語で勉強するのが大変そうでした。
理学療法士やピラティス方面に興味ある方も、連絡いただけたら彼女に繋げます!!
この一年間も、本当に充実した一年でした。
定職についていない状態でのオーストラリア。
起業家を含め、世界中の色んな人と会うことができました。
2017年8月に帰国、本腰を入れてビジネスに取り組み始めました。
起業した後は本当に何もしなかったのですが(厳密にいえば、一回だけセミナーもどきをやったのと、少し家庭教師をした。友達が3人来てくれた。笑)、でも「起業初年度」としては本当に意味のある一年だったと思います。
何が良かったって、【マインドセットが培われた】こと。
一応起業したということは、一応社長であって。
一応社長ってことは、一応事業計画を作ることを考えなきゃいけなくって。
周りの人も「え、会社の社長さんなの?」とか言い始めるし、
そしたらもちろん「何の会社なの?って聞かれるし、
ビジョンやミッションも言語化する必要があって。
そんな受け答えをしていくだけでも、ビジネスに関して色々考えることができ、
その後の方針を固め、行動に移すにあたってもとても良い時間だったと思います。
つまりは、
起業した(形だけ)→自己成長につながった
(そしてその自己成長は後々「お金」という価値でも還元された)
ということです。
だから、起業しようかなーと思っている人は、40万円握りしめて司法書士さんを訪ねて、まずは起業したら良いと思います。コストとリターンを考えると、何も考えずに起業することのリターンって限りない。
大丈夫。40万円は、働けば半年で貯められる。
悩むのに時間使うぐらいなら、半年バイトして起業しましょう。
帰国後のビジネス(起業2年目~3年目)
帰国後の最大のイベント、それは結婚でした。
本当に、本当に嬉しいことに、本当に大好きな友人達が海外から駆けつけてくれました。
みんなで泥まみれになって遊んだり、
バカやったりしてたのに・・・、
みんな、本当に立派になって。ぐすんぐすん(泣)
結婚式、楽しかったな。もう一回したいな。
妻に言うと「いいねー!やろっか。」という軽いノリ。
そんな感じで●周年パーティーとか開くかもしれません。笑
一方、起業の方はと言いますと・・・、
2017年~2018年の2年間、私は「本腰を入れる」と思いつつも「生活を楽しむことを第一優先とする」ということを念頭に置いてきました。ゆる~い起業ですね。
だって、起業ってイメージって、なんか最初は熾烈な生活をしてるイメージじゃないですか?時間が劇的に少ないとか、金が劇的にないとか。激務で倒れる!みたいな、そんなイメージ。
そんな苦行みたいな道を歩かなくたって、人生楽しみながら、自分に優しく他人にも優しいビジネスするケースは無いものか。無いなら自分でやって証明してみよう。と思ったのです。
なので・・・、基本的な方針は、
「やりたいことはやって、やりたくないことはやらない」
(義務的なことはアウトソースと効率化で減らす)
・・・うん。ワガママな気がするな!
でも、きっと人を傷つけたりしなければそれで良いはず・・・。
その結果、
という生活を送ることになりました。
起業って正直、
っていう、破天荒でギラギラしたそんなイメージだったのですが、どうやらそんな感じで生きなくても大丈夫みたいです。
(私が人の役に立つ、、、というよりはむしろ、、、私の場合は本当に助けられてばかりいるのですが・・・。)
むしろゆるゆるで、「大丈夫か?」と思われるぐらいゆるいです。
どのぐらいゆるいかって言うと、
セミナーをやるぞ!と決めたのに、
↓
前日まで一切告知をせず、
↓
結果はもちろんゼロ人。
↓
それでもセミナーを実施!
・・・というぐらいゆるいです。
とまぁこんな感じでゆるいのですが、仕事をする時は真剣に取り組んではいます。集中する時は集中・・・!普段羽を伸ばしまくりなので、それができるんじゃないか?という気もしています。
ちなみに、後ほどあるブロガーの方と会って話をしたことがあるのですが、
「秀村さんは笑っちゃうぐらいゆるいから、いざという時の行動力があるんじゃないだろうか?それが成功する秘訣なんじゃないだろうか?」
という記事を見かけました。
なるほど・・・!それはなんだか一理ある気がする!
ゆるく行きましょう。笑
「ゆるく行っている時に襲ってくる不安、プレッシャーや恐怖を理解する→消化する・流す・処理する・対処する」というスキルの方が、実は幸せ家族計画を目論む起業家に求められている事だったりして?
あ、多分今いいこと言った。
でも、それもこれも妻が要所を抑えた上でクレイジーで、かつクレイジーさを許容する器を持ってくれているおかげだと思います。ありがたや。
起業後の道のり
その後、企業さんに対してのコンサルを始めます。
直近5年の様子はこんな感じでした。お金のことも赤裸々に書いてあります。笑
私のミッション(使命)
私のミッションは、
をすることなのかな、と感じています。
人が自然体でいて能力を最大限に発揮している姿は、実に美しい。
そうやって花咲く人を増やしたい。
そう思ってます。
・・・ができ、私は本当に幸せです。
「どうやったらそんな幸せな人生送れるの?!」
と時々聞かれますが、
その個々人が持っているリソースを最大限に活かされれば、可能だと信じています。
そして、それは正しくやれば必ず手に入る「スキル」の習得で、大幅にそれができる確率が上がるものだと思います。
これらが、私の人生を良い方向に導いてくれたものであるのに違いはありません。
ですので、これらを得るための方法を体系化して伝える、ということを今は生業にしています。
というわけで、以上が私のプロフィール・・・というよりは、人生の道のりです。
あなたの貴重な時間を、私という人間のために使ってくれたこと、嬉しく思います。
せっかくここまで読んで方、いつかお茶でもしましょうね!
コメント、DM等いつでも歓迎です。^^