本当に「医は算術に成り下がった」のか 『赤ひげ診療譚』
「赤ひげのような医者はいなくなった」とか「医は算術に成り下がった」とか、そんなことを言う人がいる。断言するが、彼らはこの本を読んだことがない。もし読んでいたら、とてもそんなことは言えないはずだ。
そもそも「赤ひげ」自体、一応のモデルとなった人はいるものの、あくまでも架空の人物。いなくなったというより、最初からそんな医者はいないのだ。
さて、本書を読んだことのない人が「赤ひげのような医者」と言うとき、いったいどういう医者をイメージしているのだろうか。赤ひげこと新出去定(にいで・きょじょう)は、全体としては憎めないキャラではあるものの、疲れてくると怒りっぽくなるし、イライラしているときには言葉遣いも荒くなる。そんな医者は現代でもたくさんいる。
また、赤ひげは金を持っている患者からは多めに礼金を取り、貧しい者には無料で医療を施す。この「貧しい者」というのは、現代で言えば最低賃金で働いているような人たちである。おそらく、「赤ひげのような~」「医は算術に~」と言っている人の多くが「赤ひげからボッタくられる」側に入るのではなかろうか。そのお金のおかげで、貧しい人たちが無料で医療を受けられる。生活保護がこれだけ批難の的になっている状況で、赤ひげ的医療が称賛されることは考えにくい……。
「医は算術に成り下がった」などと言う人は、実際の医療の現状を知らなさすぎる。むしろ江戸時代から近現代までの医療のほうが、よほど貧乏人に厳しい算術医療だったのだから。
それはともかく、この本は面白かった。
子どもたちを売春宿に売り払って、その金で酒びたりの生活をする40歳女に対し、主人公の保本登は憤る。そこへ現れた赤ひげがこの女を「犬畜生にも劣る、臭いから出ていけ」など散々に罵り、女は捨て台詞を残して去っていく。(以下、省略引用)
「どうもいけない、あんなに怒鳴ったり卑しめたりすることはなかった、あの女は無知で愚かというだけだ、それもあの女の罪ではなく、貧しさと境遇のためなんだから」
「私はそう思いません」と登が言った。「貧富や境遇の善し悪しは、人間の本質には関係がないと思います。私は先生の外診のお伴をして、いろいろの人間に接してきました。不自由なく育ち、充分に学問もしながら、賎民にも劣るような者がいましたし、貧しいうえに耐えがたいくらい悪い環境に育ち、仮名文字を読むことさえできないのに、人間としては頭の下がるほど立派な者に幾人も会ったことがございます」
「毒草はどう培っても毒草というわけか、ふん」と去定は言った。「だが保本、人間は毒草から効力の高い薬を作りだしているぞ、あの女は悪い親だが、怒鳴りつけたり卑しめたりすればいっそう悪くするばかりだ。毒草から薬を作りだしたように、悪い人間の中からも善きものを引き出す努力をしなければならない。人間は人間なんだ」
赤ひげのこの人間愛には胸打たれる。そして、そんな愛ある赤ひげでさえ、やっぱり怒鳴ったり卑しめたりしてしまうものなのだ。そんな赤ひげに師事して一年の主人公・保本登が医術について語ろうとして、赤ひげにたしなめられる。
「私もまたここの生活で、医が仁術であるということを」
「なにを言うか」と去定がいきなり、烈しい声で遮った。「医が仁術などというのは、金儲け目当ての藪医者、門戸を飾って薬礼稼ぎを専門にする、エセ医者どものたわ言だ。 彼らが不当に儲けることを隠ぺいするために使うたわ言だ」
これは「医は算術に成り下がった」という人にも当てはまるだろう。つまり、自分自身の健康に対する責任をあまり自覚せず、それを医療従事者に押しつけ、結果が望み通りに行かないと訴訟を起こし、しかしそれに見合った報酬を医療者へ与えることには不満があるような人たちのことだ。そういう人たちに、赤ひげ先生は唾を吐いて顔をしかめるだろう(実際に、本書の中にそういう話もある)。
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