『燃えつきた地図 』 安部公房
はじめに
ひとり安部公房祭 第四回『燃えつきた地図 』
『他人の顔 』の次の長編で、「失踪三部作」の三作目となる。
書かれたのは1967年。
探偵の主人公が団地の女にその女の失踪した夫を捜索依頼されるところから物語がはじまり、いつの間にか立場が逆転し目的がすり替わる。
二項対立の逆転と名前と笑い
『砂の女 』と『他人の顔』同様に没個性化における《帰るべき場所》と《逃げる場所》との境界の曖昧さを描くことによって、都市での個の孤絶が浮かび上がらされていた。
そうした現代社会への風刺がシュールな世界観と共に提示されている存在論小説。
戦後の復興から急速で画一的な高度経済成長の兆しの中、日本人はなぜ没個性に対して抗うことなく受け入れたのか?と問われているような気持ちになる。
根元妻がそれらを体現してもいるだろう。
そしてやはり、《名前》を呼ぶ/呼ばれることの崇高さがひとつのキーであろう。
最後には「薄っぺらな猫」のために《名前》を付けてやろうとして自我が《笑い》に向くのだから。
また、 「反復」性を使うのが好きな作家さんだなぁと思う。
失踪した自分を部下と探しにいく#木下古栗 の『#金を払うから素手で殴らせてくれないか 』はこれをオマージュしてたりするのかな、とふと思った。
失踪三部作の中では僕は『他人の顔』が突出して普遍性を持っているように思う。
契約
キーワード的にはルソーの社会契約論のような《契約》もあるように思えた。
人間の本来性が社会によって規定されるとして、各々の欲望を(その社会ルールの中で飛び越えない範囲の)侵害し合わないように契約を結ぶことが、ルソーの社会契約論だと僕は独断で思っている。
その上で、根元妻と主人公との週3万円という《契約》について、すこし考えた。
利益を追うだけでは探偵の《存在》が危ぶまれ、根元妻の《意志》がどこにあるのか探らねばならない。
こうしたことを一般化すると、自らの意志を国家あるいは共同体に預けて、一般意志に従う、ということに繋がってもいく。
つまり、探偵と根元妻との契約は《団地》という共同体のなかでの取り決めであり、最終的に探偵はそれに従った結果、根元妻の夫と立場が同等になった
とも解釈した。
おわりに
安部公房と三島由紀夫は同年である。
彼らの世代では、戦中戦後の価値の逆転に苛まれることは想像に難くない。
三島がそこにフォーカスし、安部がそこから脱却してより高い視座から社会全体のあり様を掴んでいる点は、各々の分析の差異かもしれない。僕は理系人間だから安部公房の分析の仕方が好きでもある。
マルクスエンゲルスにグッと近くなった時期があったのだろうなと想いを馳せた。
そんなことはさておき、自分なりに軸を持って簡単に他者に迎合せず、ポジティブに自己批判しながらブレない、というのは非常に大事。