情熱を注げるものが無くなった本山の次の一手
自分の人生が小説だとしたら、今は次の章に移る時。1つの章がおわり、新しい章に突入する。そんな時な気がしている。
自分の人生を俯瞰して「あ〜大きな過渡期なんだろうなぁ〜」と思う。なのでこの際、今の感情なりを遺しておこうと思う。
遠距離恋愛で月1デートの彼氏よりも仕事
社会人になって3年半が経った。本当に目まぐるしかったし、我ながらよく頑張ったと思う。
そう、自分が今まで情熱を注いできたのは仕事だった。
1年目の私はまあそれは酷いものだった。
「こんなに手のかかる新卒ははじめて」と言われたり「他の会社だったら、本山さんは流されてましたよ」とも言われた。
でも、周りはポンコツな私を見捨てなかったし、ずっと向き合ってくれた。だから”絶対に自分は変わるんだ!”と思えた。
自分のなりたい未来像も明確にあったし、必死に頑張った。
情熱とはすごいもので。
当時、東京と京都で幼馴染と遠距離恋愛をしていた本山。彼との月に1回度のデートの日も「ごめん!やりたいことあるから新京極のスタバで待ってて」と、長い時は1時間弱待たせて(彼氏は東京から来てくれてるのに…大変失礼な女である)自己鍛錬で業務外の仕事をしてたりしてた。
何かに取り憑かれてたんだよなぁ、あの時。
(その割に、成果を出せていたかというと甚だ疑問ではあるが)
走れなくなるという恐怖
まあ色々あって、ふと思った。
「私、努力する方向間違えたかな。」と。
昔、林修先生が「努力は実るっていうけれど、それは正しい方向で努力した場合です」と何かで言っていた。この言葉を私は何故か忘れられなくて、そして丁度思い出した。
これまでの日々を否定するつもりは一切ないし、素晴らい日々だったな〜と思う。
ただ立ち止まる機会があって、自分をすごーーく遠くから客観視して、人生単位で自分の人生を見つめてみたら「…あれ?」となった。
そして、その引っかかりは取れず。モヤモヤは拡大し、私を覆った。
そして、あの時みたいに私は走れなくなった。
ずっと走ってきたから、走れなくなることが恐い。でも、もう走れない。
情熱を注ぐ対象があること、それは豊かさ
走れなくなって私はあわあわした。
私はいつも答えを求める。あの手この手で答えを見つけようとしたが、答えは出せなかった。
そういえば私が美術館にいっても、イマイチ心が動かないのは「美術品には明確な答えがないから」と最近気付いた。
悶々とした日々が流れる。
そして情熱を注げるものが人生においてあることはとても尊いことだと気付いた。
中学生の時、渋谷すばるのファンとして関ジャニに情熱を注いだ日々も相当楽しかった。
「どうしたら、すばるくんと付き合えるか」みたいなくだらないことも真剣に考えたりした。
「私は未成年で手を出したら法に触れるから、とりまハタチになろう!」という結論に終結し無力感に襲われたのを覚えている。
このまま悩んでもブレイクスルーは起こらないという悟り
そして1ヶ月が経った。
変わらず、走ることができない。
変わらず、悩み答えを欲しがっている。
そして思った、このまま悩み続けても恐らく1ヶ月後の私も同じように悩んでいるのでは…?
だって何も変わらない生活をしているのだから。
というひとつの答えに行き着いた。
仕事だけに今までは情熱を注いできたけれど、一旦休憩。走れない自分も容認。
他にワクワクすること(情熱は注げないまでも)に目を向けてみたら何かブレキクスルーする瞬間があるかも!と。
電車で地方都市開拓をするのだ!
最近何にドキドキしたかなぁ?となると、やっぱり電車になる。
電車に揺られる時間は、ただ何時間も車窓を見て物思いにふける。自己内省する時間が自然と出来て、路線開拓する度に新しい自分を発見している。
「仕事頑張るぞー!」と3年半ガムシャラに走ってた自分は、自己アイデンティティのアップデートが3年半止まっている状態にいる。
今、色んなことがモヤモヤしている。
しかし大元の悩みの種みたいなものは、潜在的なものから顕在化しそうなところまで浮上している感覚がある、あと少しで何か掴めそう。
今、私が1番情熱を注げられることは電車で日本各地を巡ることである。
とにかく今は貯めたお金と休みを全振りして、電車と地方都市開拓に充てようと思う。
人生が情熱に振り回されている感じ、また欲しいなぁ。そしてモヤモヤがブレイクスルーされたら尚のこと嬉しいなぁ。
早速、明日の休みは片道バス3時間・日帰りで福井にいってきます!(いや、バス使うんかい)