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イジメ問題を、あなたはどの立場で考えていますか

イジメについて考えたり、発言したりする時、みなさんはどの視点から考えているだろうか。
おそらく、多くは被害者、あるいは被害者の両親の立ち位置だろう。
でも、被害者がいるということは、加害者もいるわけで、加害者にも両親がいる。被害者・加害者双方に友人がいるだろうし、共通の知人もいる。それから担任、校長、教育長といった学校関係者もいる。
この中の誰の目を通してイジメを見るかで、その様相は違ってくるはずだ。

自分の子どもが小中学生になって、もしもクラスでイジメがあっていたとしたら……、我が子にはどの立場であって欲しいだろうか?

被害者になって欲しい親なんていないだろう。
加害者にもなって欲しくない。

「人を自殺に追いやるほどの加害者になるくらいなら、いっそ我が子が被害者に……」

なんて思える親はいない。では傍観者が良いかというと、それも違う。

理想を言えば、我が子には「イジメをやめよう」と話し合いを呼びかけたり、あるいは大人に対して上手く働きかけたり、そんな子どもになって欲しいが、それはいささか高望みが過ぎるだろう。

イジメ報道を見て加害者に対する激しい怒りが沸くのは当然だが、そこで少し思考をそらして、自分の子どもが加害者に、あるいは傍観者になるかもしれない、と想像してみる。
もっと先の将来、自分の子どもが教師になるということもありうる。担任しているクラスでイジメがあって、我が子はそれに気づかず、あるいは気づいていても止められず、被害者は自殺してしまう。そんなことがないとも言い切れない。
つまり、もしかすると自分も家族も、イジメ自殺に関わる人たちほぼ全ての立場になりうるということだ。

だから、加害者の立場や人権も守ろうなんて、そういうことを言いたいわけでは決してない。
ただ、当事者以外の我々はもっと想像力を逞しくしてみよう、ということだ。少し冷めた目で観察しなければ、イジメが起こるメカニズムがどうなっているのか、イジメられて自殺に追い込まれる状況とはどういう場合か、自殺しないで済むようなシステムはどういうものか、そういったことが見えてこないだろう。

底なしの泥沼にかかる細い橋をみんなで渡っているとする。イジメっ子たちが誰かを追い詰めた結果、その誰かは橋から落ちて溺れ死んでしまった。
このとき、非当事者の我々が取り組むべきは、顔も名前も知らないその加害者を天誅とばかりに泥沼に突き落とすことではない。それはもっと身近な人たちがどうするか考えることだ。
それより我々は、どこかで泥沼に落ちようとしている人たちがどうすれば落ちないで済むのか、あるいは仮に落ちたり落とされたりしても溺れ死なずに済むためには何が必要なのか、そういうことを考えることじゃないだろうか。

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