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斎藤環『イルカと否定神学』を読む~①
ネットで知り合った友人と「ふたり読書会」(仮)をオンラインでやっています。昨年も一時、このテキストを少しだけ読んでいるのですが、改めて昨日(24/01/19)最初から読み直してみました。今回からでき得る限り、「ノート」を作成していこうと考えています。
全体の目次
否定神学をサルベージする
構造からプロセスへ
よみがえる身体
逆説とコンテクスト
今回読んだのは、「Ⅰ 否定神学をサルベージする」から「1 対話ごときでなぜ回復が起こるのか?」です。
Ⅰ-1 対話ごときでなぜ回復が起こるのか?~小見出し
はじめに――哲学的疑問
オープンダイアローグとその思想
「ポリフォニー」の余白に
「主体性」の回復が最重要
逆説だらけのオープンダイアローグ
オープンダイアローグと精神分析の関係は?
ノート(ランダムに)
私は斎藤環さんのご著作には二~三冊程度接してきましたが、難しくてよくわからなかったからなのか、ほとんど記憶には留められていません。また、本著の主題である「オープンダイアローグ」についても数冊を読んでいますが、なぜこれほどまでに瞠目されているのかもわからないままでいました。それまでのカウンセリングなどと、どう違うのかを知りたいと思っています。
「なぜ対話ごときで、精神病が治るのか?」(p.7。本文でも太字)って、対話がなくちゃ、治るものも治らないでしょ?というのが素直な反応です。ここで「精神病」とされているのは、おそらくは統合失調症のことでしょう。この引用の前提には、「精神病の当事者とは『対話』は不可能である」が前提されているように思います。
「フィンランド発のケアの手法・システム・思想である『オープンダイアローグ』~」云々(p.6)。なるほど、オープンダイアローグとは、「療法」としてではなくて、「ケアの手法」であり、「システム」、そして何よりも「思想」であるのか。
オープンダイアローグに流れ込んでいる思潮(ポリフォニー、社会構成主義、リフレクティング・システム、ナラティブ・アプローチ、家族システム理論、中動態等々)のリストに「否定神学」を追加しようとする試みであるらしい(p.9)。
「みんなのなかで一人でいられる」(p.10)。「一人でいる」「一人である」とは、「みんなのなか」であってこそできることなのではなかろうか。「みんなのなか」でない一人は、「孤立」「孤絶」だろうと思う。
「もともと存在した主体性が再発見される~」(p.12)。これは、仏性は本来、全ての衆生に存しているというのと似てないか。
全体として、私が読書会を進めるに際して採用している「わからないことをその都度クリアにしようとするのではなくて、括弧にくくって先に進めばわかることもあるかもしれない」というのと似ているように感じた。
あと、ラカンへの言及について。学んだ上で採用しないとするのと、始めから「これは不要」と言って学びさえしないのとでは、同じことをするにあたっての結果が違うように思う。どことなく、守破離と似てないか。
今回は以上です。次以降の回があったら、随時作成していきたいと思います。
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