祭囃子
雨の音にまじって祭囃子の音が聞こえる。
布団から起き上がり、窓を開けるとその先には黒々とした闇が広がるばかりだった。雨の軌跡すら飲み込む闇の中から、祭囃子は聞こえる。
腕時計を見ると、午前一時を示していた。
松や竹を描いた欄間の端っこに非常用の懐中電灯が括りつけられており、私はそれを外すと外の闇に向けてみた。頼りない、丸い光が暗闇の中に泡沫の月のように浮かび上がる。
光をどこへかざしても、鬱蒼と茂る草木を照らし出すばかりだった。ときに不意打ちのように野鳥の目に反射して光ることがあったが、彼らはさらさらと降る雨の中、すぐにどこかへと去ってしまった。
この祭囃子は、どこから聞こえるのか。
私は浴衣の袖に腕を差し入れて組み、しばし雨と祭囃子の協奏に耳を傾けた。
仕事を辞め、家族を捨て、旅を初めて二年になる。旅を始めたとき、私は何者でもなかった。ただ、サラリーマンから脱落した男。家庭を築くことから脱落した男。人生の落伍者に過ぎなかった。
財産の半分は妻と子供に残し、残り半分を全額密かに開設しておいた口座に移し入れ、必要最低限の着替えや荷物を持ち、家族には手紙と離婚届を書き残して、私は家を出た。
そうして旅に出たはいいものの、一年ほど経って立ち寄った東北のある街で、私は夜の繁華街で酒を飲み、酔っていたところを数人の若者に襲われ、引き出しておいた有り金をすべて奪われてしまった。おまけに襲われたときに腕の骨と胸骨を折られてしまい、その治療費で貯金は潰えた。
私は鬱々としながら入院していたが、隣のベッドにいた山越という男が、大手出版社の編集者で、療養のため地元に帰ってきていた。彼は私の境遇を聞くと非常に面白がって、本を書いてみませんか、と誘ってきた。
私は自分の書いたものを求める人がいるなど想像もできなかったが、体験をもとに小説にしてみると、これが少なからぬ人にうけて、私は山越の伝手もあって色々な出版社の雑誌やウェブサイトなどで、ぽつぽつと小説を載せてもらったりするようになった。山越は自分の出版社で私のために連載を勝ち取ってきてくれたので、貯金は尽きていたが、旅を継続できるくらいには金が入ってくるようになった。
おまけに連絡手段がないと困る、ということで、山越は彼名義でスマートフォンを契約してくれた。連絡手段としては勿論便利だが、旅の途上の写真を撮ったり、気になったことをメモしたりと、あの小型の機械が何役も果たしてくれ、便利な世の中になったものだなあ、と改めて思わずにいられなかった。
祭囃子は、間違いなく闇の向こうから聞こえてくる。この窓の正面の暗闇から。確か方角的に正面は北向きで、崖になっていたはずだ。崖の向こうにはつづら折りの古い山道が伸びていて、対向車がすれ違う幅もない上、法面の地盤が緩んでいて落石の危険もあり、地元の人間もあまり使わないという道だ。
私は浴衣を脱いでTシャツとジーンズを着て部屋を出る。廊下は非常灯と足元の灯りが点いているだけで、暗闇が靄のようになって上方に滞留していた。
深閑とした廊下を、足音を忍ばせて抜けると、人気のないロビーに出る。物言わぬマッサージチェア、テレビ。オレンジの灯りが照らし出した本棚には一昔前の漫画本が並んでいた。私が子供の頃に流行っていたような漫画だ。ソファ席のテーブルの上には灰皿があり、煙草の吸殻が水底で死んだ珊瑚のようにうず高く積もっていた。
玄関の扉を押すと、鍵がかかっておらず、ぎい、という蝶番が軋む音を立てて開いた。不用心だな、と思いつつも外に出ると、傘立てに差さっていた誰のものとも知れない傘を引き抜いて差し、旅館前の下り坂を下っていく。
その間も、ずっと祭囃子は聞こえていた。その音色は私と一定の距離を保ちながら移動しているように感じた。どこへ行っても、聞こえる音量は同じで、足元から這い寄るような、祭囃子の熱量も、どこに行っても同じように感じられた。
私は大学生のとき、自分では大恋愛をしたと思っている。人生を賭けるほど、というか、その恋のためなら生死を賭けたっていいと思えるような恋愛だ。仕事をしていた頃、宴席でそういった話をすると、若い後輩たちから、「今どきそんな人いないですよ」と笑われてしまうのだが、今の若者たちにとって恋愛とはそこまで重要なものではないらしい。
じゃあ恋愛小説とはもう死んだコンテンツなのかというと、書けば需要はある。如実に数字に表れるし、ファンレターも他の小説より恋愛小説の方が多い。これが若い世代の中でどういう心の機微を表しているのか興味深くはある。
大学時代、恋をした相手は年上の書店員だった。私の行きつけの書店で働いていた、八歳年上の女性で、涼やかな目元と凛とした眼差し、いつもそっと浮かべた微笑みが美しい人だった。どんなときでも姿勢や所作が流麗で、彼女が本の品出しをしている様子はまるで舞を踊っているようで、見とれてファンになる男は少なくなかった。
私は彼女に一目ぼれし、悶々としているのももどかしく、若さゆえの向こう見ずだったのだろうが、彼女に交際を申し込んだ。
驚くことに彼女は受け入れてくれたのだが、これまでに男性と交際したことはないのだと言う。実家が厳格な家庭で、結婚前の交際など断じて認めない。結婚も恋愛ではなく、親が決めた相手としか認めない、という古風というよりは時代錯誤な家なので、交際していることを隠してなら、という条件で了承してくれたのだった。
二年ほど、密やかな蜜月を過ごした。しかし、どこでどう知られたか分からないが、私と彼女が交際していることを彼女の実家に嗅ぎつけられ、彼女は無理矢理実家に連れ戻された。
私は懸命に抗ったが、抵抗も虚しく彼女は連れ去られ、私は屈強な男たちに叩きのめされて這いつくばってそれを見送ることしかできなかった。
彼女の実家の住所は聞いていたので、私は密かに彼女の実家に向かい、生け垣を飛び越え、手入れの行き届いた庭園を忍び歩いて、彼女の部屋の外に辿り着くと、窓を叩いて来訪を知らせ、彼女との再会を果たした。
私は彼女を部屋から連れ出すと、人目に付きにくい山道から逃げようと夜の山の中に入った。山の中は頭上を木々が覆い隠し、地面には冷たい闇が這っており、一寸先すら見通すことはできなかった。
懐中電灯で照らし、道と思しきところを歩き続けた。細かな砂が流れるような小雨が降っていて、じわじわと体や服を濡らして不愉快だった。山の中にはただ、私たちが苦しそうに息をする、その息遣いと靴が地面を蹴る音だけが響いていた。
左手に急な崖が広がる狭い道に出たところで、彼女ははたと立ち止まり、突然「祭囃子が聞こえる」と言い出した。
私の耳には何も聞こえなかった。ただ肩を上下させて呼吸する私の息遣い以外、鳥も獣も虫の声すら、そこでは聞こえなかった。
気のせいだ、と私は先を急ごうと促して、彼女も左手の崖の方を気にする素振りを見せながらも渋々従って歩き出したが、それから五分としないうちに、彼女は再び祭囃子に心を引かれ、「ああ、懐かしい」と言いながら崖の方へと歩き出そうとするので、私は慌てて抱き留めた。
彼女は暴れて、手や足を滅茶苦茶に振り回したので、ぬかるんだ足元では私も踏ん張りが効かず、やがて二人とも崖から足を踏み外して転がり落ちた。
私は彼女を守ろうとその体を抱きしめ、落下の衝撃を自分に引き受けようとした。回転しながら転がり落ちていく途中で、石に頭をぶつけたことで意識が遠くなり、落下しながら意識を失った。
気を失っていたのは、十分ほどだった。私は意識を取り戻すと痛む頭を押さえながら起き上がり、掌にべったりと血がついたので、ポケットからハンカチを取り出して頭を押さえた。
ふと気づくと、彼女の姿がなかった。周囲を探しても見つからず、もしかして私が死んだと思って立ち去ったのだろうか、と思ったがそんな薄情な人でないと思い直し、周囲を隈なく捜索したが、結局見つからず、出血のため貧血を起こした私は山の中で倒れ、次に意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。傍らには彼女の父親が座って、眉間にしわを寄せながら黙りこくっていた。
私が目覚めると、彼はその重々しい口を開き、娘の行方を訊ねた。私は山の中の出来事を話し、もう帰っているものだと思っていたことを伝えると、父親は青ざめた顔で立ち上がり、二度とこの街にくるな、と言い残して去って行った。結局、彼女の行方は分からなかった。
旅館の前の坂を下り切り、右手に伸びる道へと足を踏み入れる。雨の中、落ち葉に交じってひっくり返って死んでいる蝉の死骸が転がっていた。
祭囃子は手招きするように、山道の方から聞こえてくる。
濡れた自販機の灯りがぼんやりと闇の中に浮かび上がり、静かな駆動音が唸り声のように鳴っていた。自販機の取り出し口には大きな蜘蛛が巣を張り巡らせており、蜘蛛自身は雨宿りするように取り出し口の中でじっとしていた。雨が巣に付いて白い玉が数珠のように連なっているように見えた。
彼女は祭囃子を聞いて、そして姿を消した。なら、祭囃子の向こうに、彼女がいるのではないだろうか。
私はそう考えた。アスファルトで舗装された道が途切れ、ぬかるんだ土道になる。足を取られないよう注意しながら山道の上り口に足を踏み入れると、藪の向こうに小さなお堂が見えた。小さな石灯篭のようなものが無数に草の中に置かれ、その中心に古びて朽ちかけた木のお堂が建っていた。お堂の観音開きの扉は朱の文字も消えかけた札で封印してあり、お堂の背後には太く大きな樹がそびえていた。
私はお堂を横目に眺めながら、山道を登って行く。祭囃子の太鼓の音が、一層強く、早くなった気がした。朗々と唄う女の声が聞こえる。それが彼女の声のような気がして顔を上げるが、掴みかけた彼女の気配はすぐに露と消えて、聞こえてくる女の声はただの女の声になり、私にとって意味のないものになった。
山道を登って行くと、視界の先にぼんやりとした灯りが目に入るようになった。様々な色を内包した、コガネムシの背中のような光。それに伴って、祭囃子の音がはっきりと、くっきりと輪郭を持ったものとして聞こえるようになる。朧げな音色ではなく、実体をもった音として。
旅館からは光など見えなかった。まだ山道を登りだして、それほどでもない。距離と位置関係からして、旅館から見えないとおかしいと思った。けれど、私は目の前の光に、誘蛾灯に群がる蛾のように引き寄せられていく。
登りきると、平坦な開けた場所に出た。右手奥には大きな神社があり、その神社の左右に控えるように屋台が軒を連ねている。屋台には様々な光を放つ提灯がぶら下げられていて、多色の光が溶け合い、七色の雨が降るようだった。
屋台はかき氷や唐揚げ、たこ焼きやお好み焼き、金魚すくいに射的、と昔からある懐かしいものばかりだった。左右の屋台が挟む、神社正面の参道の真ん中では、木彫りの龍や鳳凰があしらわれた神輿の中に人が乗り込み、その中で太鼓を叩いたり笛を吹いたり、唄を歌っていたりした。
神輿には車輪がついていて、男衆が引いて歩くと、がらがらと音を立てた。神輿が揺れているのは車輪のせいなのか、中にいるお囃子たちが踊り狂うせいなのか、私には分からなかった。男衆たちは裸の上に法被一枚を羽織り、おうおうと獣が吠えるような声を上げて、お囃子に張り合った。
私は何かに手を引かれているかのように、人で賑わう屋台の中に迷い込み、ふらふらと歩いた。今川焼の、生地が焼ける甘い匂いがして、唐揚げを揚げている、小気味よい油の音がする。その中に混じって、人の肌の甘い匂いや、汗の香り、涼風のような若い女性同士のささやかな声、ハーモニカを吹いたような子どもの声。そうしたものが私の鼻に、耳に、体に染みついていくような気がした。
金魚すくいの屋台の前を通りがかったとき、私は浴衣姿の女性の後ろ姿にはっと足を止め、人ごみをかき分けて屋台の軒の中に入り、彼女の隣に佇んだ。
女性は私の方に顔を向けず、水槽の中を指さして、「あの琉金がほしい」と言った。彼女の声だった。
私はしゃがみこみ、彼女の横顔を見つめ、どこに行っていたのか、今どうしているのか、問う。だが問いかけて私ははっとした。あれから十年以上経っているのに、彼女は一切年をとっていないように見えた。
あれ、あれ、と彼女は子どものように指を激しく振ってお腹が丸々と膨れた琉金を指さした。
私がなおも何かを言おうとすると、水槽越しにパイプ椅子に座っていた胡麻塩頭の店主がもなかでできたポイを手渡してくるので、それを受け取ってしまう。彼女は無表情で、ただ目だけをきらきらと輝かせて指さした態勢のまま待っていた。
私は店主からお椀を受け取ると、ポイを構えて琉金がこちらに近づいてくるのを待った。
琉金は私に狙われていることなど知らず、重たそうな体を揺らして、大きな尾びれを優雅に振りながら水の底を泳いでいた。
和金たちを掻き分けて私の前に近づいてくるので、意を決してポイを水に浸け、お椀を近づけてポイの上に琉金を乗せ、水から引き上げる。一瞬、ポイとともに琉金は水の上に踊り上がったが、すぐにポイの根元がふやけて折れ、琉金はもなかと一緒に水の中へと戻って行った。
私は彼女の顔を窺い、店主の顔を眺めたが、店主の顔は首から上が闇の中に溶けているようで、表情がまったく分からなかった。彼女は何の感情の動きもなく、「琉金」と呟くと立ち上がり、私を置いて人ごみの中に消えて行ってしまった。
慌てて立ち上がって追い駆けると、たこ焼きの屋台の前で何かにTシャツの裾を引かれ、思わず立ち止まる。振り返って見ると、そこには私の上の娘と下の息子が立っていた。
娘は小学校二年生で、妻によく似て口が達者な少女に育った。日がな本ばかり読んでいるから、語彙力もあるため、迂闊な言葉を使うと間違いを指摘されたりする。息子は幼稚園の年長で、こちらは私に似てのんびりとした性格に育ったため、せっかちな姉にいつも急かされている。でも、自分のペースは崩さない頑固なところもある。
遠く離れた街にいるはずの、子どもたちがなぜここにいるのだろうか。
娘が「お父さんは帰ってこない」と怒りを滲ませた瞳で睨みながら言うと、息子が「たこ焼きが食べたい」と私の裾を引っ張る。仕方なしにたこ焼きを二パック買うと、二人にそれぞれ渡し、祭の喧騒から離れた灯篭の根元に二人を座らせた。
二人ははふはふと口を開け、息をもらしながらたこ焼きを頬張った。
私は二人の前にしゃがみ、「お母さんは」と訊いた。息子はきょとんとした顔をし、娘は怒ったようにふくれっ面をしながら首を横に振った。
目の前の二人は、実在の存在なのだろうか、と訝しくなった私は両手を伸ばして、娘の左頬と息子の右頬に触れた。肌は夜露を吸ったようにしっとりとして、ほのかに温かく冷たかった。血の通っている人間のそれに思えた。
どうしてこんな時間に、ここに。私が困惑しながら訊ねると、息子がたこ焼きを滑らせて落としてしまう。泥にまみれたたこ焼きを見つめ、みるみる目に涙を溜めて、その堰が切れると同時に、口を大きく開けてわんわんと泣き始めた。
娘は自分のたこ焼きを脇に置くと、息子を抱きしめ、背中を擦って慰めた。右手で涙を拭ってやり、額の髪をかき上げて、頭を撫でると息子も落ち着いてきたのか、しゃくりあげてはいたが、泣き止んだ。
娘は私に敵意を漲らせた目を向け、「お父さんは要らない」と斬り捨てるように言い放つと、「だって、泣いているこの子を抱き締めてもくれない」と責めた。
返す言葉がなく、私は口を噤んでしまう。
息子も目を擦りながら私を見上げて、声を震わせながら、「お父さんは要らない。だって、たこ焼きならお母さんも買ってくれるもん」と私を突き放した。
そうだな、と自分で納得せざるをえなかった。私は、この子たちのために何もしてやれなかった。父親らしいことなど何も。しないまま、私は家を飛び出し、捨ててきてしまったのだ。
娘と息子は、私を睨みつけると、みるみる姿を変えて、二匹の蝶となる。紫がかった黒色のアゲハになった二人は私の周囲を嘲笑うように巡って、やがて空へと舞い上がり、屋台の灯りを受けて七色の鱗粉を振りまくようにたなびかせ、夜空の闇の中に消えて行った。
私は頭がぼんやりとしてきて、ふらふらと覚束ない足取りで祭りの中に戻る。すると誰かが私の背中を押し、次の誰かがまた背中を押し、と背中を押されて導かれるように歩いて行くと、一台の神輿の中に押し込められる。
神輿の中では彼女が笛を吹き、妻が唄っていた。私は狐の面をした男から太鼓のばちを渡されると、太鼓の前に立たされた。
太鼓など叩いたこともなかったが、その前に立ってみると、不思議とどう叩けばいいのか分かった。私は両手を振ってどんどんと太鼓を叩き、彼女の笛の音に合わせて、祭囃子の心臓の鼓動を刻む。
祭囃子は、一匹の獣だ、と思った。太鼓が心臓の鼓動を鳴らし、笛が一本骨のような音色を通す。そして唄が肉付けをしていき、獣となる。
私はその獣の中で、心臓を鳴らしている。彼女と妻、かつて愛した二人の女性とともに。
妻は唄った。どうして家族を捨てて行ったのかと。
私は太鼓を叩きながら叫んだ。私は破裂寸前だった。人生で抱えたものを抱えきれず、逃げなければ後は破裂するしかなかったのだと。仕事も家庭も、何もかもが私には向かないものばかりで、それを抱えながら生きていくことはできなかった。
捨てられた方の気持ちが、苦労が分かるか、と妻は笑うような、泣いているような声で唄った。
私にはすまない、と答えることしかできなかった。もう今さら戻れないし、戻るつもりもないのだと。
妻が唄うことを止めると、彼女も笛を吹くことを止め、すべてのお囃子が止まって、途端に音が切り抜かれて闇の淵から転げ落ちてしまったかのように無音となった。
妻は低く、唸るような声で唄う。家族の元に帰るか、彼女とともに行くか選べ、と。
私はどちらも選べなかった。私はもう一人でいたかった。誰かの人生を背負うなどということは、到底私には向かない仕事だったのだ。恋人も、妻も子どもも、私の人生には重すぎる荷だった。私を支える柱は根元から腐りかけていて、私一人分の体重しか支えられない。誰かを支えようと思えば、根元から崩れて、私も奈落の底に落ちていくほかないのだ。
私は無言で首を振った。その私を見て、妻は侮蔑しきった目を向け、彼女に一瞥をくれた。すると彼女は細く甲高い音で笛を奏でると、涙を湛えた目で私をじっと見つめ、やがて目を伏せて、おもむろに閉じた。
笛の音が私の意識を切り裂くように響き渡り、私は目の前がゆっくり暗くなっていくのを感じながら倒れ、神輿の中で闇に沈んでいった。
はっと目を覚ますと、私は旅館の部屋の中で、窓辺に置いた籐椅子の上だった。
外は相変わらずの雨で、窓の外は暗闇に包まれている。だが、耳を澄ませど祭囃子の音は聴こえない。
夢だったか、と冷や汗で背中がぐっしょり濡れているのを感じながら、寝床に戻ろうと立ち上がり、振り返る。するとそこには一人の女が立っていた。彼女だった。
私は危うく悲鳴を上げかけ、「なぜここに」と早鐘を打つ心臓を鎮めながら問うと、彼女は「どうしたの。久しぶりの家族旅行じゃない」と私の腕に手を絡めてもたれかかった。
家族旅行、と口の中で疑問符のついたそれを転がしながら部屋の中を見ると、見知らぬ子供たちがすやすやと寝息をたてていた。
この子たちは、と私が絶句して彼女の顔を見つめると、彼女は心底心配したように眉根を寄せながら訝しがり、「私たちの子供じゃない」と首を傾げながら言った。
私は恐る恐る子供たちに歩み寄り、その顔を見て言葉にならない悲鳴を上げた。二人の姉妹の顔は双子のようにそっくりで、そして妻の顔に瓜二つだったからだ。
尻もちをついて、ずりずりと後ずさると、姉妹はぱちりと目を覚まし、示し合わせたかのようにシンクロした動きで布団から起き上がる。彼女は背後からするりと腕を回して抱きしめ、耳元で「今度は離さないでね」とそっと囁いた。
それを姉妹はにやにやしながら見て、「私たちを捨てないでね、お父さん」とユニゾンの声で言うと、けたけたと笑った。
私は絶叫して、姉妹を押しのけて部屋から出ると、廊下を駆けて雨の中、旅館を飛び出した。
雨の中、地面の底から浮かび上がるように祭囃子の音が聞こえてくる。太鼓の鼓動、笛の音、女の唄声。一匹の獣のようなお囃子。
私は音のしてくる方向を目指して、一目散に走り出した。祭囃子はやはり北の山道の奥から聞こえてくるような気がした。
旅館の前の坂を下り、右手に曲がって自販機の朧げな灯りを通り過ぎ、やがて目の前に雑草の中で朽ちたお堂が見えてくる。そこから山道が伸びているはずだった。懐中電灯もなく、月明かりすら頼れない雨の深淵の闇の中では、道の先も見えなかった。だが、私は記憶を頼りに山道に向かって足を踏み出す。祭囃子は一際大きくなる。
だが、山道の地面を踏みしめた、と思った瞬間、そこに地面はなかった。私は暗闇のぬかるみに飲み込まれるように落下し、地面に体を打ち付けて濡れて腐った葉や土の臭いが鼻腔を襲い、全身を引き裂くような痛みが走って、自分が斜面を転がっているのだということに気づく。木に体をぶつけ、石に当たって頭が裂け、血が流れる。やがて止まったときには、頭の中に自分の体を流れる血の鼓動が鳴り響き、祭囃子の太鼓の音なのか、そうでないのか分からなかった。
倒れ伏した私の体に祭囃子の音がシャワーのように降った。懸命に顔を上げてみると、血で赤く染まった視界の先に、姿を消したあの日のままの彼女が立っていた。
彼女はしゃがみ込み、私を担ぐように引き上げると、引きずって斜面を進む。どこに連れて行こうとしているか、分からない。彼女は何も言わなかった。
やがて開けた、平らな場所に出ると、私を穴の中に放り込んだ。穴は私一人が横になるのにちょうどいい大きさで、彼女は無表情に私に土を被せ、埋めようとする。どうしてこんなことを、と問うと、「私は埋まっている。同じようにあなたも埋める」と抑揚なく言い放ち、私を完全に土の中に埋めた。
しばらくすると、がらがらと車輪が転がる音がして、鼓動のような太鼓が私の真上で響いた。風のように骨を通していくような笛の音が流れ、彼女の声で肉を纏うような唄が響く。人々が集まり、私の上の地面を踏み鳴らしている。
その祭囃子の音色は、いつ果てるとも知らず、私の上で響き続けた。
〈了〉