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第一次家庭大戦

 昨晩夫と大喧嘩をした。結婚して十年。これまでにないような激戦だった。第一次世界大戦と言っていい。夫のキヨくんが日本なら、私はドイツだ。キヨくんの強引かつ電光石火の攻め手の前に、私は私の南洋諸島や青島を放棄せざるを得なかった。屈辱的な敗戦と言える。
 そもそもの戦争の発端は、キヨくんが右手を高性能ロボットアームに替える契約を勝手に結んできてしまったことにある。
「バカなんじゃないの? この値段。高級外車が余裕で買えるよね。こんなお金ウチのどこにあるのよ」
 私はキヨくんが浮かれ気分で差し出したカタログをテーブルに叩きつけると、いらいらして髪を掻きむしりたいのを懸命に我慢しながら吐き捨てた。キヨくんは何かを言いかけてその言葉を飲み込み、視線をふいと逸らした。その間抜けな仕草が私の怒りに更なる薪をくべた。
 そして私は察した。お金は、あれしかないと。
「まさかお父さんの遺産、勝手に使ったわけじゃないよね」
 父は五年前に亡くなった。そのときに結構な額の遺産をおいていってくれたのだが、母の希望と夫婦の話し合いで、遺産はいつか家を建てるときの資金にしようと決めていた。
 キヨくんの顔から汗が噴き出て、頬を伝って鋭角な顎の先から流れ、テーブルの上にぽたぽたと垂れた。キヨくんの表情はごっそり抜け落ちていた。
 私の胃の腑では大蛇が暴れていた。真紅の鱗をしたうわばみだ。それが牙を剥き、叫びをあげながら私の喉から迸り出ようとしている。だが、それより早く、意外なことにだが――私の怒りの爆発より早くキヨくんが「だってよう」とべそをかきながら幼児のように怒りだした。
「サ、サナちゃん絶対にうん、って言ってくれねえべ?」夫、方言が出ている。かなり切羽詰まっているらしい。
「当り前じゃないの、そんなの。何よこれ、ロケットパンチ機能って」
 キヨくんは私が呆れてカタログの仕様の一つを指さしたのを、興味があるのだと勘違いして、目をきらきらとお星さまにしながら「だろ! すげえだろ」と興奮して説明し出した。
 キヨくんの拙い説明によると、腕に装着したロボットアームは、「ロケットパンチ」の音声コードにより、時速二百キロで最大八百メートル飛翔するらしい。ただし、飛んでいった腕は自動で戻ってこないので、自分で取りに行く必要があるが、GPSがついているので場所を見失うことはないのだそうだ。ハイテクなのかローテクなのかよく分からない機能だ。
「これってさ。ダイヤモンドの指輪を投げ捨てるのと同じだよね。もし見つからなかったら大損害だけど、その辺どうなの。て言うより、腕が飛ぶ機能なんて必要ないでしょ」
 私が鼻を鳴らして馬鹿にしたように言うと、キヨくんは「そんなことない」といきり立って立ち上がり、両手でテーブルを激しく叩いた。激しすぎたせいか、キヨくんの右腕が付け根から折れて取れ、テーブルの上をごろごろと転がった。腕の断面が私の方を向く。中心に金属の支柱が入っているが、後は樹脂製の簡易な義手だ。
「しんっじられないっ! もう腕切ってきちゃったの?」
 絶句して私も立ち上がってしまった。どうしたらいいか分からなくてとりあえずテーブルに転がった腕をキヨくんより速く拾い上げ、その腕を思い切りキヨくんの顔面に向かって叩きつけた。ちょうど拳が握られた形になり、腕はアナログなロケットパンチとしてキヨくんの顔面を弾き飛ばした。なるほど、こういう風に使えばいいのか。って感心している場合じゃない。
「だ、だってよう、早期切断キャンペーンっていうので、一割安くなるって言われたら、やらない理由がないべ」
 夫のあまりの馬鹿さ加減に二の句が継げなかった。キヨくんはまたもや勘違いして、私がそれならしょうがないと渋々納得して黙っているものだと思ったらしく、今度は燃えるような情熱的な眼差しで(夜の営みのときでさえ、そんな目を向けてくれたことはないけど)、腕を嵌めながら、「今ならサービスで火炎放射機能がつくんだってよ」と嬉々として言った。
「火炎放射機能?」とあまりのあり得なさに思わずおうむ返しに訊き返してしまった。
 キヨくんの幼稚園児のような説明によると、掌に放射口が取り付けられ、「火炎放射」の音声コードによって二千度の炎を最大二十分間放射することが可能だという。実生活で二千度の炎が必要な場面ってなんだ? 炎じゃなく水が出るようにした方が世のため人のためになったんじゃないのか、とか、私も思考がどんどんズレてきているのを感じた。
「ねえ、その火炎放射器ってどういう場面で活用できるわけ」
 まともな答えなんぞ返ってこないのは分かっていながら、何か希望の欠片でもないかと、藁にもすがるような思いで訊いてみる。
 うーん、とキヨくんは呑気に顎に手なんか当てちゃって考え込み、閃いたとばかりにぱっと花火のように顔を明るくして、「サナちゃんが襲われたときに守る!」と拳を振り上げて宣言した。
 いやいやいやいや。二千度の炎で? 骨まで丸焦げになるわ! と心中でつっこみを入れて我慢し、言葉を飲み込んだ。そしてやんわりと、「過剰防衛だよね。相手死んじゃうよ」とお前間違ってるぞと教えてやる。幼稚園児の方が理解力があるような気がしてきた。
「サナちゃんを襲うような奴、死んで当然だよ」
 真顔で言うキヨくんに、私の理性が白旗を上げた。こいつに何を言っても無駄だ。そしてもう契約して腕を切り落としてきてしまっている以上、ロケットパンチが打てる火炎放射器つきのロボットアームが我が家に来るのは確定している。マイホームの資金と引き換えに。
 私は席を立ち、デキャンタ―の水をコップに注ぐとキヨくんに差し出す。彼は「おっ、気が利くねえ」などと言いつつうまそうに水を飲み干す。緊張していただろうから、それは水もうまいことだろう。
 これはとんでもない奇襲作戦だった。私がそれと知る前にはすべてが決着し、私はただやりどころのない怒りに嬲られて敗残の士としてこの借り物のアパートに倒れるほかはなかったのだ。
 いつでも泣くのは愚かな男ではなく、利口な女だ。世の中というのは理不尽にできている。男が好き勝手馬鹿なことをやってもお目こぼしがもらえるのに、もっと程度の穏やかな失敗を女がすれば、こぞってその失敗を責める。そういうときに声が大きいのは味方になって然るべきはずの女だ。女の敵は男ではなく、女だ。だが、今回に限っては完全にキヨくんを甘く見ていた。いや、甘く見ていなかったから、してやられたというべきか。ここまで愚か者だとは、さすがの私も読めなかった。
 負けは負けだ。仕方ない。
 だが無条件にキヨくんを勝たせておけば、間違いない、こいつは図に乗る。第二、第三のロボットアームが我が家にやってこないとも限らない。そうすれば、我が家はおろか実家の財産まで食い尽くされてしまうだろう。
 だから私は手を打つ。先ほどキヨくんに飲ませた水の中には、胃から脳に昇っていって張り付き、脳にある指令を送り続けるナノチップが入っていたのだ。その指令とは、考えていることをすべて口にせずにはいられなくなるものだ。つまり、キヨくんはもう隠し事はできない。考えた瞬間には口にせざるをえなくなる。また、口にした音声は自動的に私のスマートフォンとパソコンのアプリに送られるようになっているから、見落とすこともない。
 だからロケットパンチやら火炎放射器を使うことを考えた瞬間、私は夫のロボットアームを叩き壊してでも、それを止める義務がある。背負いたくもない義務だけれど。
 まあ、私はキヨくんの妻で、キヨくんは私の夫だから、仕方がない。仕方がない。

〈了〉

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